読書の是非や効果を抜きにして『大多数の人はほとんど本を読まず家に大して本がない(そして読まないまま人生を終わる)』のが現実ではある。直接カネにならない知識・教養・思索に対する欲望の個人差は大きい
文学にしろ小説にしろ思想哲学・学術にしろ、『基礎教養の共有』があるかないかで『話題の広さ・深さ』は変わるが、世間一般では『経験主義的な雑談・他人に対する興味や噂(誰かれがどうしたこうした)』が話題の中心だから、読まなくても文化圏によって不都合はない。知識・教養抜きの知的なセンスや話術の巧拙もある。
読書やエクリチュール(書かれたものの世界)とは何かを一義的に語り尽くすことは難しいが、読書は突き詰めれば『人文学的な素養・教養』と『人格形成的な知性研鑽』と『知的好奇心の充足』と『実利的な知識・情報』の側面に分類することができ、人文学的な読書の本質は知的主体のビルドゥングス(継続的建設)に他ならない。
『読書のある世界・人生』と『読書のない世界・人生』の違いは、『知覚(五感)・生理に依拠する動物的・社会的な生の外側』を拡大していけるかどうかで、文字の世界の書物の探索とは『知覚・生理・社会に決定され尽くさない自己の建設』の側面がある。『自由意志や自己研鑽(知・徳・利の合一)・共有知継承』の利もある。
翻って、文字の読みすぎや観念の過剰は、独我論的な精神病理・苦悩の道でもあるから、『読書・知識・観念の世界』と『行動・経験・知覚の世界』を行ったり来たりの往還の人生こそ最も欲張りなものかもしれない。山の本を読むことは登山と同義ではなく、恋愛の本を読むことは異性交遊と同義でもなく、往還にて実相に近づく。
時に知的主体の理性の人であり、時に動物的主体の本能の人である。あるいは時に煩悩に塗れる快楽主義者となり、時に心身をストイックに練磨する禁欲主義者ともなるのが、人間らしい人間であり、すべてを書物の中、あるいは実生活の中だけに求めきれるものではなく、精神と肉体、知識と知覚を行き来して時間が流れる。
現代の若者は約20年前と比較すれば、礼儀正しく粗暴でない人が増えた印象だが、犯罪減は『ウェブやスマホ・非ハングリー化・オタク化・センスの変化』等の複合要因か。
そもそもヤンキー文化や不良文化(暴走族文化)が死滅に近づき、センスの変化で『暴力的な威圧・たむろ・タバコ・酒・ドラッグ』が格好良いものと思えなくなり、ライフスタイルがインドア化・スマホ化した。髪型・服装もファッショナブルなものにシフトした。ゲーセンは不良の恐喝どころか、高齢者の憩いの場と化している。
若者が逸脱的な集団行動を好まなくなり、ウェブやスマホ普及で『自分の交友・趣味・娯楽の世界』に閉じこもりやすくなり、『他者との暴力的な奪い合い』になるハングリー精神も落ちた事が大きいが、物理的に何か悪事をするより、スマホでゲームやラインといった時代の世相か。
若者の犯罪離れの社会現象というのは、『平和な時代と環境・欲望の減少・自己イメージの変質・さとり世代・自己完結』等のさまざまな要因が関係した結果なのだろう。