『生まれてきて良かった』と思える人間(自己)になれるか否か:親子間の殺傷事件と人生の責任受容

■長女の首絞めて殺害した疑い 父「暴力ひどかった」
(朝日新聞デジタル – 04月12日 13:20)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3943024

人間の究極的な幸福と不幸の基準は『この世に生まれてきて良かった・生きていることがありがたい・社会や他者と協力して生きていきたい』と思えるか否かに尽きると言ってもよい。

現代の未婚化にせよ少子化にせよ、その根本にあるのは『生まれてきて良かった(お父さんお母さん、産んでくれて育ててくれてありがとう。この両親の元に生まれてきて良かった)』と素直に思える楽観的な人が減ってきたということであり、『人生の感動や喜びを自分の子にも伝えたい』と思えない人が増えたということだろう。

生物学的な天敵を失ったホモ・サピエンス・サピエンス(知恵あるヒト)が絶滅するリスクがあるとしたら、全面核戦争・人口爆発の資源欠乏でなければ、科学技術主義・遺伝子操作の進歩の行き過ぎの副作用か、生きる意味を本質的に考える自意識・無常観のこじらせかのいずれかだろう。

『難しく考えすぎ・考えずに感じればいい・本能や勢いでいけばいい・ありのままに生きれば良い・人間も動物の一種で生殖は自然の摂理である』と言える人は、近代的自我が『禁断の知恵の実の毒(賢しらな人生の意味の先読みと諦観)』に冒されきっていないそれなりに幸せな人であり、動物的な生命力と共同体の再生産の意志を失っていない。

気づけばこの世に投げ出された実存的な主体である私たちにとって、第一に直面する不条理が『誕生』であるとも言えるが、何びとも誕生に対する拒否権や生まれ落ちる環境・遺伝子についての選択権を持ってはおらず、実存的な存在形式そのものが本人の同意とは関係のない不条理と所与の現実を前提(スタート地点)にしている。

有利なスタート地点もあれば不利なスタート地点もあるが、最終的なゴールの死だけはみんな等しく避けられない。生も老いも死も避けられないという意味では、私がそこに関与できないという同じ条件で始まって終わるのが人生の構造でもある。

人生とは気づいた時にはそこにいたという強制されたスタート地点から歩き始めて、その不条理を親・周囲のバックアップや自分の努力・能力によってできるだけ納得のいくもの、面白いものに変えていこうとするプロセス(理不尽さや強制された感覚を忘れて人生を自分のものとして引き受けていくプロセス)であるという見方もできる。

虐待・貧困・いじめなどがなければ、親に愛され周囲にも可愛がられることの多い『幼少期~児童期前期』の頃は大半の人が楽しい経験のほうが多いものだが、中学生・高校生くらいからは所与の関係性や枠組みを超えてその個人が持つ気質・性格・能力魅力の個人差が開いてくる。

『生まれてきたくなかった・人生はつまらない・社会や他人とは合わないという自己否定や社会憎悪』を延々と引きずるような経験・環境・考え方が続くと、いつまでも親に対する責任転嫁や怨恨感情を引きずって、社会・他者とも心理的に敵対して調和(自立)できず、大変に苦しい(周りも苦しませる)人生のプロセスを送ることになってしまう。

子供の家庭内暴力やひきこもり、ニートなどはその典型的な現れの一つであるが、大人でも犯罪やハラスメント、自殺、虐待、愚痴(不平不満)の多さ、陰険・卑屈な性格などになって人生に対するネガティブな態度が反映されることがある。

客観的にはいったん生まれてきてしまったからには嫌なことが多くても、自殺でもしない限りは生きていくしかない(いつまでもなぜ生んだのかと親を責めたってどうしようもない)ので、大半は人生のどこかの時点で『強制されたネガティブに生きる人生(他人に責任転嫁して何もしないで抵抗する人生)』という見方を捨て、『自分で選択し努力しながら充実させていく人生(自分で責任を引き受けて何かして価値を創り出す人生)』という前向きな見方へと転換していくし、そうできなければ終わりなく苦しむか(他者や運命を恨み続けるか)、無気力に諦めてひきこもるかしかなくなる。

人生の途中で嫌な思いやつらい体験をした子供が『生まれてきたくなかった・誰も産んでくれなんて頼んでいない』という不平不満を親にぶつけてくることがあるが、こういった自己否定や人生の悲観を離脱させて自分の人生を『親のもの』ではなく『自分のもの』として積極的に引き受けさせていくことが、児童期から思春期にかけての子育てにとってもっとも重要な課題なのだろう。

つぶやきにも書いたが、現代社会は『貨幣経済(お金を稼ぐ・仕事の能力が高い)』と『評価経済(人から好かれる・人に認められる)』の二つの市場原理で動いている側面が強まっている。

それは即ち、何もしなくても何も能力・魅力がなくてもただ生きているだけで丸儲けと思えるような『所与の存在承認の条件(地縁血縁・平等待遇・終身雇用などのゲマインシャフト的なもの)』が減っているという厳しい状況を意味している。

『生きていて良かった・人生は楽しい・もう一度くらい人生を生き直したい(子供を産んで育ててその成長を楽しみにしたい)』と素直に思えるためのハードルが一段上がっているという問題(社会的・対人的・経済的な満足を得るための競争があり他者に値踏み・否定をされやすい問題)はあるが、自己存在の素直な承認と積極的な生産的行動の意欲を高められるかどうかというのは、半ばは自己責任であり、半ばは環境・親子の要因というか、良い結果でも悪い結果でもそうなることになってしまう(全員が全員ハッピーなプロセスを歩むわけにはいかないという意味あいもある)『運命・必然』と呼ばれるものなのだろう。

家庭内暴力が激しかったという39歳の娘は自分自身の苦しみやつらさを、年齢相応に自分の責任・問題として引き受けてどうにかしようという行動・思想の工夫や適応ができず(長期のひきこもりや対人関係の遮断などで精神状態が悪かったなどもあるだろうが)、自分を産んで育てた親に上手くいかない人生の責任転嫁をして暴れ続けたという見方ができるが、親による手のつけられなくなった子の殺人というのは『なぜ自分を産んだんだ』という問いに対し、『お前を産んだことが間違いだった』という答えを返す最悪の悲劇性(子育ての挫折とその自己責任の帰結の感覚)を伴う。

親子間の刑事犯罪にまで発展しないケースでも、市場原理化する現代社会の中で親や境遇を恨み続けているような人(広義のアダルトチルドレンに該当する人)は、見えないところで相当にいるといえばいるのだろうが、そういった社会全体の自分の運命の受容や存在の延長意志の現れとして『恋愛・結婚・出産へのマインドや統計的変化』を見ることもできる。

子供時代、長く見ても思春期や20代くらいまでであれば、『どうして自分を産んだんだ。生まれてきたくなかった』という問いに、良好な親子関係の成立を前提にすれば『私があなたに生まれてきて欲しかったから。どんなことがあってもあなたを守りたいと思った』という親の愛情・意志ありきの答えを返すことに効果が出てくる。

だが、30~40代以上になって自己否定や社会憎悪、親との対立を引きずり続けるような心理状態(生育歴・人生観)にどういった処方箋があるのかというのは、通り一遍の正論では解決のつかない問題(自意識のいじけ・ひねくれからの厭世や憎悪)ではある。

『能力を発揮する・お金を稼ぐ・人から好かれる・人に信頼される・良い条件下に生まれる』というプラグマティックな市場原理で報われなくてつらいと嘆き続けるならば、幸福追求の実現・挫折の軸を飛び抜けた博愛や自尊、運命愛、社会貢献、歴史性、思想哲学の次元で生を肯定し直さなければならない……こういった出生以後の因果関係の問題や自意識の肯定・否定に思想的に深入りする人は、『自分の子供に生まれてきて良かったと思って貰えるか』という再帰的・再生産的な問いに再び足元を掬われる恐れがあるが、禁断の果実を食べた知恵あるヒトである人類は、『本質・因果を考えすぎる人』にまでなってしまうと生のあり方と他者(子孫)への影響に迷い過ぎてしまうものである。

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