砂漠の風土・生活様式と一神教の宗教の本質:過酷な自然と向き合った人間と信仰

キリスト教やイスラームは不毛の乾いた大地で有限の資源を奪い合ってきた『砂漠の宗教』の出自を持つ。山・森林・水に恵まれ和を尊ぶ温暖な日本から一神教の信仰や歴史は見えづらい。砂漠において和は心の持ちようではなかった、『和』は渇ききった自分が漸く手に入れたコップ一杯の水を分け与えられるかを問う生のシビアな現実であった。

中東や北アフリカの途上国では紛争・テロ・犯罪が絶えず、ムスリムには過激化する者も出るが、砂漠の宗教・部族(ユダヤ人起源)の宗教でもある一神教は元々『信仰・正義の為の戦い(神の命令による殺戮)』を否定しない。努力して平和や博愛を実現する理想もあるが、戦って生き延びた砂漠の風土の影響は水面下にある。

砂漠の一神教の自然観は、神が自然(モノ)を創造したとする『唯物論』である。山林の多い日本の多神教の自然観は、自然(モノ)に神性が宿っているとする『アニミズム・汎神論』である。キリスト教圏で人の知性と技術で自然を支配する自然科学が生まれたのは偶然ではなく自然を精神のないモノとして認識する目線があった。

砂漠における自然風土は、そのままにしておけば人を飢え乾かせ(暑さと寒さで)殺していく『自然の猛威』である。河川・湧水・木の実・動物の肉・農耕など『自然の恵み』を実感できた温暖湿潤気候の土地とは『自然・資源の捉え方』が異なり、自然は克服すべき脅威となる。心の持ちようより先に自然の厳しい淘汰圧があった。

日本も格差・貧困・将来不安などさまざまな問題を抱えてはいるが『中東・アフリカの途上国ではなぜ戦争が続いているのか,地域の人たちの知性やヒューマニズム(人権意識)が低いのではないか』という疑問も先進国の平和・豊かさの基盤の上に立ったものだろう。

だが、自分・家族・部族以外の他者に分け与える余裕を常に欠く砂漠的な世界の中で、一神教はそれでも隣人愛の大切さをみんなで自覚しようとする宗教としての側面を持っている。

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