『安楽死』は『尊厳死』と言われることもあるが、尊厳死でいう『尊厳』とは概ね以下の要因に基づいていて、『近代的自我・脳機能』と相関している。
1.『認識・意思・自意識・自律』に関する最低限度の脳機能(精神機能)が維持されていること。
植物状態や脳死に近づいて何も認識できなくなり自分が誰かもわからなくなり、事前に表明されていた本人の意思に反してでも無理に周囲が生かそうとする時に、尊厳が失われる。
2.回復する見込みのない致命的疾患が発症・進行しているが、その苦痛・苦悶が平均的な人間の耐え得る限度を超えないレベルにまで緩和されている。あるいは本人がその苦痛・苦悶に何とか耐えられる(耐えることに意味がある)と認識して納得していること。
病気や老衰に回復の見込みがなく、本人がそれ以上の苦痛・苦悶に耐えられない(耐える意味が分からない)と表明しているにも関わらず、極度の痛み・絶望に無理に耐えさせられている時、『今まで、自分にできる限界まで苦痛に耐えて頑張り続けてきたがもうダメだ』と何度も懇願しても、その願いが受け容れられず極度の痛み・絶望を本人の意思に反して(本人が無意味な痛みと感じている中で)味わわされている時に、尊厳が失われる。
3.『自意識・自律性・プライド』に依拠する本人が考える最低限度の人間らしさが維持されていること。
この尊厳の要件は、上の2つの要件と比較すれば薬物投与の積極的安楽死を認める根拠としては弱いが、自分で食事や排泄をすることができなくなったらできるだけ医療で無理に延命されずに(人工呼吸器・人工心肺・気管切開・経管栄養・胃瘻をできるだけ避けて)、『自然死』に近い寿命をまっとうしたいという本人の思いと相関するものである。
安楽死にも、筋弛緩剤投与などの医療行為によって死期が早くなるように幇助する『積極的安楽死』と延命治療をできるだけ行わないことで結果的な死期を早めることになる『消極的安楽死』の区別がある。
回復の見込みがまずない致命的な疾患や老衰、障害に直面した時に、延命のみの効果しか期待できない医療・介護を拒絶して寿命の到来を待つ『消極的安楽死』には反対は少ない。
医療者が薬物を投与して積極的に患者の生命活動を停止させる『積極的安楽死』にはさまざまな観点から賛否両論がでやすいものの、『幸福追求原理(苦痛回避原理)に依拠する近代的自我』の道徳規範からすれば、本人の同意がある積極的安楽死の賛成者が多数になるのは道理である。
『安楽死・尊厳死』が議論になる背景には、現代人の平均寿命が飛躍的に伸びて死ぬ寿命と健康寿命の間のギャップが大きくなったこと、ほとんどの致命的な感染症や内臓疾患を医療が克服したことで『がん・血管障害・老衰(認知症を伴いながらの老衰)』以外では簡単に人が死ななくなったこと、個人の生命の価値が過去に比べて非常に重くなり医療・介護を拒否した自然死に近づこうとする死を受け容れられなくなったこと(事件・事故・災害による偶発的な死も過去以上に受け容れられない理不尽なもの許されざるものとして強調されるようになったこと)がある。
近代医学と医薬品の進歩は『もっと長く生きたい・色々な病気を治したい・苦痛や不快を軽減したい・理不尽な病死を減らしたいという人々の夢』を概ね実現してきたが、『最期までぎりぎり健康でいたい・すべての病気を治したい』というレベルにまでは至っていない。
皮肉なことに長生きすればするほどに『がん・血管障害・老衰による健康喪失(機能喪失)のリスク』に晒される、究極的には老衰に抗い続けられた人間はいない。がんの発症リスクとして喫煙・飲酒・ストレスが強調されやすいが、20世紀後半からがんが急増した最大の要因は『高齢化(60代以降まで大半の人が生きられるようになったこと・加齢による細胞分裂時の遺伝子複製のエラー率増大)』である。
先進国は事件事故・遺伝疾患がなければ『がん・血管障害・老衰以外』ではそうそう死なない長寿の時代(若い時期の大半の病気や怪我は医療で治ってしまう長生きして当たり前の時代・100年前はありふれていた乳幼児も含めた若死にが極めて異常で特殊だと感じられる時代)になっていることの影響の一つである。
そもそも現代人は、想定外の事故・事件・災害にいきなり巻き込まれて即死するような不運なケースを除き、『病院以外の場所を選んで死ぬこと・医療を拒否してあっさり死ぬこと』は簡単なことではない。大半の人は、好むと好まざるとに関わらず、病院か介護施設のベッドで臨終の時を迎えることになる。自宅で介護されても体調に異変があれば病院にいったん搬送され、その際に延命治療に取り掛かればかなり長期にわたって医療のお世話になる人も少なくない。
医療・医師と完全に無縁のまま、体調が悪化したり老衰で弱っていっても病院に一切行かずに、『自然死』することは現代人にはほぼ不可能である。無縁社会における『孤独死・行方不明』などのケースで、病院を受診せずに人知れず死んでいく人はいるかもしれないが、後は自然界(海・山・森林等)で遭難死して遺体が出てこない人とか、外国・辺境の土地で客死した身寄りのない人など特殊な人に限られる。
『大きな病気になったり心臓発作(血管障害)を起こしたり嚥下不能になったら医療なしでそのまま死んでもかまわない・できるだけ医療を受けず自然な寿命をまっとうしたい』というような非近代的(医療拒絶的)な自然死肯定の思想は基本的に受け入れられない。
重症の病者・負傷者を見た人が何もせず放置すれば救護義務違反など違法行為の問題も出てくる。一度、病気・老衰で病院に搬送されれば本人が薄れゆく意識の中で医療措置を拒否しても、医療側はそんな意見は聞かずに人工呼吸・電気ショック・挿管などをして救急措置を行う、運ばれてきた患者の命を何とか回復させて助けることは教育研修期間に徹底的に叩き込まれる『医の倫理』であり、医療者にとって生命最優先の医の倫理は黄金則である。その黄金則が揺らいでいる医師を、通常の患者はまず信用しないし受診しないだろう。
自然死が消えた現代における死に方は、医療者・家族・親しい関係者をはじめとする『大勢の人の善意・共感・救援』によって支えられており、人間は病気や怪我で倒れて自己回復できなければそのまま朽ち果てていく(体調が悪くなったら目につかない場所に移動して誰にも知られずひっそり死んでいく)という動物のような死に方はまずできない。またそういった他者に助けられたり看取られたりしない自然死は、人間社会では一般に『ヒューマニスティックな意味のある死』としては評価されない、どちらかというと『孤独で寂しい無意味な野垂れ死に』に見られがちということもある。
視点を変えれば、『安楽死するかどうかを選べる人・迫る自分の死について親しい家族や関係者と語り合える人』というのは強制的な死や理不尽な死を免れ続けて、高齢まで認知症を悪化させず(極度の貧困・孤独の罠も回避して)に生きられた人である。なおかつ、相当な高齢になっても自分を大切に思ってくれる家族や死を惜しんでくれる近しい人がいる状況で安楽死について話し合えるのであれば、『大往生』に近い死を迎えられる幸運な人としての側面も強い。
近代的自我は『セルフコントロール・幸福追求(苦痛回避)と自己実現』に高い価値を置くが、『生き方・産み方・死に方を自分の意思と能力である程度まで選べる』というのは、科学技術・医療技術・市場経済が発展していなかった近代以前の人間にはどうやっても不可能な贅沢であり、宗教的感性からすれば人間の傲慢にも見えるものである。
記事にあるような『安楽死か終末期医療かで家族・親しい人と共に悩み語り合う』というのは、現代においてもみんなに許されている境遇ではなく、事故・事件・病気・災害で短命に終わった人、家族や知己に恵まれず孤独・貧苦に終わった人からすれば、長生きしてそれなりに多くの楽しい思い出と経済力があり、ペインケアを受けながら家族や知己と語り合っている末期患者は不幸な存在とも言い切れない。
がんで耐えがたい苦痛に襲われ続けている若者・子供になると、確かに高齢の末期がん患者よりもその悲劇性・受苦性ややりどころのなさは格段に高まるが、どうにもならない苦しみや病気、死を医療・科学で回避できるかのように思い始めた長寿の時代の歴史はいまだ短く、『理不尽・不条理の運命の対峙』はどうしても苦しくてつらくて耐えがたいものである。
病気になったり怪我をしたり老衰して動けなくなったり、事故事件・災害に遭ったりというのは、有史以来のヒトが何度も味わってきた運命といえば運命なのだが、現代では安楽死を選択しなければならないほどに長寿化と延命技術が発達し、人間を簡単には死なせてはならないという人権意識が高まってきた反動も当然に生まれる。
記事にあるような納得ずくの予定調和的な安楽死のエピソードは、近代的自我が理想的な終わり方として思い描く『生の意味と関係の温かみに満ちた選択的な死の典型例』である。
だが、夫婦共に医師で経済的に余裕があり、仕事と家庭、バカンス、人とのふれあいを思う存分に満喫し、理解のある子供にも恵まれて愛と思いやりの中で『計画された安楽死』に向かうというのは、先進国においても人生を順風満帆に送ることのできた一部の人に許される『近代的自我のストーリー性・功利主義的なハッピーエンドの自己完結』だろう。
超高齢化社会と無縁社会(未婚離婚・単身世帯増・少子化)・格差問題が連鎖的に進展する現代日本においては、『お金の心配をせずに安楽死か終末期医療かについて家族・親しい人と共に納得できるまで悩み語り合える』というのは、かなり幸福なプロセスの中で人生を送り続けてきた人だけに限られる悩みであって、大半の人には近代的自我が思い描くような意味と温かみのある安楽死の選択肢は用意されない可能性が高い。
末期がんや脳死(植物状態)に対する積極的安楽死が、日本で法律的に承認されたとしても、『家族・親しい人と一緒に納得できる自分の生命の終わらせ方を模索する制度』ではなくて『病苦・貧困・孤立を背景としてこれ以上医療・介護を続けられるかどうかの選択を余儀なくされる制度(潜在的に生きたい人でも社会全体から無意味なコストとして扱われやすくなる制度)』に変質させられる危険性もある。
3人に1人が65歳以上の高齢者になる未だ経験したことのない超高齢化社会では、財政問題(本人の負担能力)を無視した生命最優先の医療・介護の提供は次第に困難にはなっていく。
今は『生きたくない人でも無理に生きさせられる医療・社会・倫理』が問題視されて安楽死が肯定的に捉えられやすくなっているが、『生きたい人でも安楽死を承認しなければならないような世間体・経済状況・心理的圧力』が生まれるはずで、記事にある夫婦のような経済力・人間関係・判断力に恵まれている『どちらでも選べるポテンシャルを持つ層』は今後減っていく可能性のほうが高いのである。