戦後日本にはリベラリズム(自由主義)を対立軸とした政党政治の争いはそもそもなく、日本国憲法が個人の権利保障としてのリベラリズムを根本で規定し続けてきた。リベラルの反対は自民党的な保守主義でもない。
リベラリズムの原点は『個人の自由の保護』であり、古典的なリベラルは『国家権力に強制・干渉されない自由』を求め、経済が発展して社会に余剰が生まれると『国家権力による福祉的な再分配の自由(生存権・社会権)』を求めるものへと変質していった。現時点の特に米国のリベラルは後者の『福祉国家・大きな政府』に近い。
リベラリズムの原点は自由主義という言葉のままに『個人の自由を尊重する思想』である。古典的リベラルは『国家のための国民(国家権力の強化と国民の忠誠・統治)』ではなく『個人のための国家(国家による個人の必要限度の保護)』を志向する。ラディカルになればリバタリアンやアナキストにまで個人の自由が拡張する。
リベラルは平たく言えば、国家(統治権力)があってこそ国民の生存があるのだから究極的に国民より国家が上である(国家は国民に生命・財産を捧げるようにとの教育や命令もできる)という権威・統制主義に対抗する思想だ。つまり市民=主権者が権限移譲する社会契約で国家は暫時の権力を認められたに過ぎないと考える。
リベラルとは何かを一言で定義しなさいと出題されれば、『基本的人権の不可侵性を重視して人間の自由を尊重・拡大していく思想』と答えれば、概ね歴史的なリベラルの変質も包摂した回答になる。リベラルは『平和主義・福祉国家・弱者救済・死刑廃止・個人主義』と相性が良いが、それらは人権保障のバリエーションである。
なぜ日本でリベラルが人気がないのか。現代日本は世界でも例がないくらいに『個人の行動・思想・表現の自由』が認められ、多くが政治的に無関心でいられるほど政治権力・武力による直接の強制や抑圧が少ないので、『これから強制されるかも』の不安はあっても『今以上に強制するな』という古典的リベラルの要求は出にくい。
格差・貧困が問題になっているから、福祉国家的(弱者救済的)なリベラルならもっと人気が出てもいいのではという意見もある。だが日本は成熟期に入ったとはいえ、個人資産1億円以上の国民が100万人超、大企業・公務員など中流階層は1000万人以上でその家族もいる、極端な財の再配分は財産権侵害で危険視される。
リベラルの起源は『干渉されず自由に生きる思想』で国家権力から生命・財産・行動を差し出せと言われない自由だったので『小さな政府』を志向した。だが先進国では暮らしが豊かになり、自由権の焦点は『強制されない自由』ではなく『最低限の生活や権利を保障される自由』へと変わり『大きな政府』と相性が良くなった。
日本で福祉国家的なリベラルが人気がないのは、一定の中流階層のボリュームがあり『勤勉道徳・自力救済・自己責任のエートス』が機能してきたからだ。『経済弱者は自己責任・怠惰や無能の差別』が世間体とセットになることで、自分は自立した主流・中流層だという意識から弱者寄りのリベラルを称する政党を避けやすかった。
現在の自公政権・安倍首相の思想や政策は、日本国憲法の基本的人権の尊重を弱めたり、経済・医療・介護の自己責任の割合を強める意味では『反リベラル』だろう。格差・貧困が出ても『社会福祉による救済要求』ではなく『国家主義・民族意識による自尊心(中韓の仮想敵)』に逸れやすく、リベラル支持層は増えにくい。
リベラルは個人主義にも集団主義にも結びつく可能性はある。歴史的に見れば『市民の自由』を勝ち取るため市民が武装して革命・戦争を起こしたこともあるが、現代ではリベラルは基本的に『個人主義の前提』を強めた、反リベラルの我々意識を持つ国家主義・民族感情と比べると『連帯感・求心力』でどうしても見劣りしやすい。