改憲賛成の議員が多数派を形成。“96条の先行改憲・9条の平和主義・13条の基本的人権”をどう考えるか:2

この記事は、前回の記事の続きになっています。

そもそも現時点においても、国連憲章・国際法で自衛戦争以外の侵略戦争(利益獲得のための戦争)は禁止されているのだから、自由民主主義国である日本が対話・交渉による解決を提案しているのに『大義名分のない一方的なミサイル攻撃・本土侵略攻撃』を行うこと自体が戦争犯罪であり、その行為を支持する大国は存在せず国連安保理の地位を外されて拒否権を失う可能性(一方的な侵略攻撃を続ければ事後的に国際軍事法廷の処罰に掛けられる可能性)も高い。いったん戦争に勝って侵略すればやりたい放題できるという価値観を、一般国民が持っていることそのものが危ういのだが、『戦争の勝利=敵方の継続的な奴隷化・使役化』というような認識を現代で持っている人がどれくらいいるのだろうか。

中国に侵略されたチベットやウイグルと日本を同一視するような極論もあるが、チベットや回教徒の自治区は清朝時代に中華帝国の一部に組み込まれていた歴史が長く、独立国としての歴史・実力の要件を初めから兼ね備えている民族国家とは異なるわけで、チベットと日本のような国際的地位を固めている大国(人口も領土も経済力も防衛力も格段に異なる集団)を同列のものとして考える事自体が非現実的である。

逆に考えれば、『軍事的な対抗措置・先制攻撃』をほのめかすほうが、相手国に脅されたからやられる前に攻撃したという『自衛戦争の口実』を与える恐れがあり、『自衛権の範囲を越える示威行為・集団的自衛権の積極的行使=国民の生命財産を守る抑止力』という等式は必ずしも成り立たないように思う。

9条に対する誤解として、攻撃されても何も反撃できない無抵抗主義であるかのような誤解もあるが、9条の平和主義は『自然権としての自衛権・反撃権』までも否定するものではなく、自衛隊のような非戦争目的の『専守防衛の実力組織』によって、外国からの不正な攻撃・侵略に対して自衛措置(痛撃を与えて自国領土内から追い出す措置)を講じることは可能であるとするのが通説である。

9条や自衛隊では国民の生命・安全を守れないというのは、世界最強の軍隊と核兵器を持っているアメリカでも自国民の生命・安全を日本以上に守れていない(WW2以後も膨大な戦死者を出し続けている)のだから現実に合致していないし、国防を至上命題として核武装しながら徴兵制を敷く(対話よりも圧力のほうが効果があると主張する)イスラエルでは、パレスチナ制圧を主張する右派の政治家が要職に就けば就くほど、逆にイスラム過激派のテロリズムの犠牲者が増えている。

テロリズムの対抗措置でイスラエルが空爆・ミサイル攻撃をしたりもするが、その反撃のためにまたテロリストがやってきて終わりなく犠牲者が出ている。近代化が進んだ強大な武力によってパレスチナ問題を終息させられるという希望は見えず、やけっぱちになったイスラエルの核の先制攻撃によって中東一帯が壊滅的状態になるのではないかという不安を煽っているだけである。

9条の平和主義・戦争放棄の縛りがなかった大日本帝国は『国民個人の自由・権利』を守るための軍事措置を取ってはくれなかったし、戦後日本では当たり前に保証されている個人の表現・思想信条の自由も認められておらず、全体の秩序や国家の目的によって国民の生命・財産・行動・思想は大きく制限されてもいた。

自衛権を維持しながら平和主義・戦争放棄の原理原則を掲げることは不可能ではないし、日本はもっと積極的に『相互的な武力不行使・対話交渉の原則』を相手に訴えていき、日本が憲法9条によって侵略的な軍事行動に縛りを掛けているのに、なぜ挑発的な軍事活動を展開しているのかなどの正論と懸念を『国際的な公開討議の場』で主張していくべきだろう。歴史認識の対立や攻撃的な民族感情の問題にしても、『閉じられた民族国家の内部』だけで話し合ったり一方的な教育をしたりするのではなく、『国際的に公開された場』において協調主義・相互理解を目的とした対話を繰り返す機会を増やせるように日本から働きかけていくべきだろう。

『内政干渉・文化伝統』だとして独裁政治や人権侵害、男尊女卑、宗教支配、戦争行為などが看過されている現在の国際情勢の流れを変えていくこと、各国家のエゴイズムや国民(人民)の機械的な道具化・兵士化によって生み出されてきた歴史の悲劇を直視するように求めることが必要だろう。『9条の平和主義・専守防衛の国際規範化(実効性担保)』を常任理事国が内政干渉だとか何だとかで逃げたり煙に巻いたりせずに実行していくこと、戦争・軍事による恫喝や利益獲得を実質的に禁じるような国際司法の強制力、各国の教育内容の改善を図ることが急務である。

9条改正が即戦争につながるわけではないし、実際問題として仮に各条文の憲法改正が行われても、数年程度の短期的スパンでは私たちの生活への直接的影響はでないと思うが、憲法の権力(全体主義)に対する拘束性が弱まることは中長期的に見て、子孫の世代において『国家権力に支配される国民・道具化(使役化)される国民というかつての図式』を蘇らせられる法的な下地になる恐れを完全には払拭できない。

平和主義にせよ基本的人権にせよ国民主権にせよその他の環境権・プライバシー権などにせよ、憲法をより国民の利益や安心につながる内容に改正するのであれば改正する意義はあると思うが、『国家権力の影響力の強化』や『国民の自由・権利の制限しやすさ』につなげるような改正を、現代で今すぐにしなければならない必要性もメリットも乏しい。

96条改正で発議要件を緩和してでも改憲を推進したいとする安倍政権の問題点は、『日本の過去の政治体制(戦争)や国民性の美化』を繰り返し話しているために、『国民(個人)のための改憲=個人の自由と権利の保護』ではなく『観念的な国家(政官業の支配層)のための改憲=国家や公の秩序に対する国民の忠誠義務の強化』なのではないかという疑念がどうしても生まれやすいことである。

『日本を、取り戻す』『美しい国・誇りを持てる国』にせよ、安倍首相の話す言葉に『過去の日本の政治体制や戦争における問題点(国民の犠牲・忍従)の指摘』や『個人の尊厳や自由・人権を守りぬく意思』というものがほとんど感じられないのは気になるところである(そういった近代啓蒙思想の自由を拡張する価値観が安倍首相はもしかしたら嫌いなのではないかという危惧もある)。軍事・義務・規範といった『あるべき強い国と忠実な国民の理想像』だけが突出することによって復古的な改憲イメージを強めてしまっているのは残念であり、権力・統治・秩序の視点ではない『立憲主義の民定憲法』を目指す改正にシフトして欲しい。