国家・政府(政治家)の全体的な方針や命令、流れに従わない『国民の基本的人権』が邪魔になっていて、段階的な憲法改正によって『個人の尊厳原理』よりも『国家の統治原理(全体利益・国民の義務とされるものの強要)』を優先させたいという本音が透けて見えるようにも感じられる。こういった本音の部分の復古的な国家観や歴史認識が、自民党が主導する憲法改正やその原案に賛成できない最大のネックにもなっていると思うのだが。
麻生副総理のナチス擁護(ナチスの方法論に自民党も学びたい)と受け取られても仕方ない発言は、『第二次世界大戦後の国際秩序』に再び日本が(正確には日本の右派の政治指導者が)、軍備強化(平和主義の逸脱)・権利制限・国家主義教育を前提にして再挑戦しようとしているのではないかという国際社会の疑念を招きかねない。
『ナチスの手口に学ぶべき』というのは、端的には『立憲主義・議会政治・自由民主主義を脱法的に短期間で破壊してしまう手口に学ぶべき(政権党が民定憲法と議会政治を停止させて憲法・法律・人権に縛られずに何でもできるようにすべき)』ということを意味するわけで、ナチス擁護ではなくナチス非難のつもりだったという弁明を受け入れるとしても、現代の議会政治・民主主義の常識からはかけ離れた権謀術数主義をイメージさせてしまう危うい発言だ。
麻生副総理のこの発言は『憲法の最高法規性(下位の法律・条例・命令のすべての有効性を担保する機能=違憲な法律は無効とする前提)』をどう考えているのかという基本的な憲政の認識に関わることである。
大衆の扇動と議会の多数派工作による政党政治の破壊(野党の強制解散)、SS・SAなど武装組織の威圧によって、1933年3月にナチスは『全権委任法』(一党独裁体制の法律的な承認)を成立させるわけだが、そもそも全権委任法やナチスの全体主義政策はワイマール憲法違反であり、全権委任法はいくら議会で全員が賛成したとしても仮に国民全員が賛成しても、『違憲(三権の持続的な一党支配=国家と一政党の同一視は違憲)』で無効とされるべきものであった。しかし違憲性を指弾して追及する勢力は既におらず司法権もナチスの手に落ちていたので、立憲主義の建前などはもはや通用しなかった。
アドルフ・ヒトラーやナチスの独裁政治は『民主主義(衆愚政治の英雄崇拝)』によって生み出されたと言われるのは一面の真理に過ぎない。なぜなら民主主義というのはそれ単独では古代ギリシア・ローマの時代から存在した多数決の政治体制であって、特別に優れているわけではないからで、時に衆愚政治・ポピュリズムに陥って体制が崩壊し、再び君主制(僭主制)や貴族制(寡頭制)に戻ってしまうことも多かった(古代ギリシアの思想家ポリビオスの政体循環論など)からである。
国民を主権者として国民の権利を保護する『民主主義・議会政治』は、『立憲主義・自由主義・人権思想・市民的な主体性』とセットになって初めて有効に機能し続けることが保障される(多数決と国民の賛成だけでは議会制民主主義の崩壊や個人の人権侵害・権力による生命の喪失を防ぐことはできない)ということを学んだのが第二次世界大戦のファシズムの悲劇だったはずなのだが……。
再び日本の政治権力者層(与党の有力者層)の中でナチスドイツや大日本帝国の『強大な支配統制力(個人のいない全体主義社会)』への憧憬が生まれているとしたら、支配統制の地位・権益に預かれる権力者でも官僚・軍人でも財界人でもない一般国民としてはその憧憬・国家観(憲法観)に付き合うメリットや義理は無いというしかない。
その一方で、『強くて大きなものへの共同幻想的な情念・全体に一体化して個人としての弱さや不安を忘れたい願望』は立憲主義・国際協調主義がなければ、いつ経済生活の崩壊や民族感情の興奮によって着火してもおかしくない人類の原初的本能(社会的動物性)に由来するものでもあり、現状で憲法や人権(自由権)があってもそれを保護する不断の意識と学び、努力を要するだろう。