日本における支配的な行為規範は長らく『世間体』によって規定されてきたが、世間体というのは地縁・血縁・学校・職場・昔馴染みなどの『共同体への帰属感の強度(断ち切り難いしがらみの強さ)』によって生み出されるものである。
世間体や体裁(見栄)は『~くらいするのは当たり前である・だから~していないのは恥ずかしくて人様に顔向けできない』という『恥の文化』を生み出して、1990年代頃まで日本人のライフサイクルや社会通念・価値観をかなり画一化するだけの力を持っていた。
現代でも50代以上くらいの世代であれば、『人から笑われる軽く扱われる・人から馬鹿にされるのが恥ずかしいから』という世間体の同調圧力や価値観の均一化の影響力をかなり強く受けているはずだが、現代ではこの『世間体の実在性・影響力』は環境によってかなり薄れてきてはいる。
現代は個人主義と市場原理(自己責任)の時代であり、30代以下くらいの世代で一定の知性・洞察・配慮があれば、過半の人はその人がどのような状態にあっても『それぞれの生き方・好き嫌い・価値観・能力魅力・こだわり』などがあるという価値観やライフスタイルの多様性を前提として織り込んでいる。
『結婚していない・友達がいない』などの一人の状態にあるからといって『完全に決めつけた物言い』をする人は、よほど粗雑で乱暴な人(ある意味で現代人としての対人魅力や相手に合わせてもてなす話術に乏しい人)だけであり、それ以前に大半の人は共通の要因・時間がなければ、他者の詳細な個人情報や生活状況にほとんど関心がない。
若くて魅力的な人なら、知らない人から欲求や関心、話題を向けられることも多いだろうが、一定以上の年齢になって取り立てて目立つ特長・魅力がなければ、あまり親しくもない他者からあれこれ聞かれたり関係を深めたりするアプローチを受けることがなくなってくるのである。
逆説的だが、年齢を重ねて老いるほどに家族や親友以外の赤の他人が、自分のことに興味関心を持って助けてくれたり関わってくれなくなりやすいから、若くて特長・魅力があるうちに(その場の約束だけの人間関係よりは)縁が切れにくそうな結婚をしたり子供を作ったほうがいいという価値観もかなりポピュラーな人生方略である。
今はとても迷惑がられるけれど、昔は『人からあれこれ言われるうちはまだ華』と言われたりもしたが、高齢者が特殊詐欺などで騙されやすい背景にも『詐欺かもしれない電話であっても、もしかしたら子供や知り合いの誰かが電話してきてくれたのじゃないか』という期待が影響しているとされる。
ずっと固定電話を留守番電話にして電話連絡を基本放置すれば特殊詐欺は防げるが、高齢者は『外部からの連絡・訪問』(若い人なら逆に嫌がるかもしれないが)に人寂しくてすぐにレスポンスしたくなってしまったりする。
これは一定の資産があれば結婚していても子孫がいても高齢者は同じ問題構造に陥りやすいことはある。かなりの割合の高齢者の心理には『寂しいから、話し相手がほしい・構って欲しい・誰か電話や訪問をしてくれないかな』という他者の興味関心を求める思いがあるからであり、よほどマメに連絡したり誘ってくれる親族でもいない限りは、人は年を取って『血縁・情緒・間柄』以外に人を惹きつけてくる力を失っていけばそうなりやすい。
話が高齢者の孤独心理に脱線したが、中高年以上の年代になってくると職場・家族以外の他者と大勢で群れる人(どこかに行くのに色々な相手を誘って群れたいと思う人)のほうが基本的に少数派になる。
結婚していたり恋人・友人がいても一人行動が苦にならない人が増えてきた現実もあるが、周囲にいるみんなが同じような通学・生活・バイトをしている10~20代の若い時期と比べると、『生き方・仕事・結婚と子供・経済状況・将来の展望などの個人差』が大きくなってくるので、40代以上くらいになればなかなか無邪気な友達づきあいというのは難しくなりお互い気を遣って疲れやすくもなる。
定期的に集まって、一緒にどこかに遊びに繰り出したり何時間も語り明かしたりする中高年の友達づきあいというのは、社交的・活発な人でお金に余裕もあり人生設計も順調な人、地域の昔馴染みとの縁を切らさないマイルドヤンキー層などならあるかもしれないが、そういった友達づきあいや集まりに時間・労力を割いてずっと参加し続けたいという人もあまり多くなくなっているのではないかと思う。
やはり年を取るほどに『自他の差異・話題の相性・生き方の中心(核心)にあるもの』がずれやすくなり、敢えて会っても自分が期待したような友情のやり取りや感動体験の共有など(そういったプラスの影響がなければ敢えて会いに行く動機が高まらないし、お互いずれた価値観での競争や自慢になると不快にもなりやすい)がしづらくなってしまうからである。
現代人の多くは『完全な孤独・誰も話し相手がいない状況(感情や体験を共有できない状況)』を恐れる一方で、『一人の時間・自由な状況(不本意に他者から煩わされたりあれこれ要求されない自由)の価値』というのも十分に分かっているし、『結婚・育児のために必要な時間・労力のコストの大きさと決断(そのために捨てなければならないもの)』や『誰かとの良い関係を継続していくための手間暇』についても分かっているはずである。
本当の意味で『自分と異なる生き方や状況にある他者・(好んで一人なのか仕方なく一人なのかの別はあれ)一人の状態にある他者』のことが全く理解できずに、ひたすら否定・拒絶するだけというのは、自らの知性・情緒・想像力・感受性の安定やコミュニケーション能力を欠いているということの現れに過ぎないかもしれない。
都市部では特に世間の実在性は薄れているが、自分が一人であるか誰かと一緒であるか(結婚しているか)を気にして何か言ってくる世間・他者がいるとしたら、それは『共同体への帰属感の強度(断ち切り難いしがらみの強さ)』に依存したものであり、端的には一日のうち一定以上の時間を共有する職場・学校の人、その人の人生を一定期間以上にわたって見てきた家族・近隣・地域の人などになってくるはずである。
そこには大して親しくもない相手の優劣感情の絡んだマウンティングもあれば、親・親友のようにあなたの人生設計や孤立化を心配している人の平均的な生き方を前提とした忠告の場合もあるだろう。
知らない不特定多数の他者が構成する他者・社会はむしろ『あなた個人の状態』について無関心・無干渉になっており、『完全な孤独・誰とも話さない状況』にまでいくとつらいと感じる大半の人にとっては、結婚・家族の有無も含んだ『自分に興味関心を持ってくれたり話し相手になってくれる他者の存在』というのは『老い・病気・貧困』とも合わせて完全には切り捨てて無視することが難しい問題ではある。
欧米のキリスト教圏やイスラーム圏は、神と自分(個人)が向き合って普遍的な善悪を内省していく『個人主義の罪の文化』とされ、日本は共同体の同調圧力や常識から外れた生き方や行為をすることを恥ずかしいとか情けないとか感じる『世間体(集団主義)の恥の文化』とされてきた。
罪の文化の内省力ではないが、『一人でいる静かな状態』というのは確かに『誰かと一緒にいる騒がしい状態』よりも、深く物事を思索したり記述したり、内省的・言語的に自己洞察や状況分析をしたりしやすい特長があると同時に、メンタルヘルスが悪化している時には『他者・社会への不平不満』や『承認不全からの妄想的な世界観』に侵されやすいリスクも併せ持っている。
読書や勉強をしたりインターネットをしたり映画・ドラマなどコンテンツを鑑賞したりする時には、一人でいる静かな状態のほうが望ましいというのはある。また旅行や外食などでも、一人で行ったからこその現地でのちょっとした会話・交流があることもあり、登山・観光・ハイキング・ジムなどでも『大勢の仲間と一緒の人』よりも『一人で楽しそうな雰囲気の人』のほうがむしろ声をかけやすい、話題を振りやすいところがある。
時に聞く話では、高齢者の女性でも一人でゲームセンターに行っていると、同世代前後の男性から『お嬢さん、一緒にゲームしませんか』とか『余ってるからメダルをあげますよ。このゲームはこうするといいですよ~』とか声かけされて、ちょっとしたナンパのような体験(別に何か悪い誘いがあるわけでもなくその場での話し相手を求めているだけ)をすることもあるようである。こういった色々な場所で知らない人と交流する体験も夫婦や連れがいると、なかなか起こりにくいものではあるし、飲食店などでも『一人でよく来る常連への声かけ』をしてくれる店員さんが結構いたりする。
まぁ、『完全な孤独・誰とも話せない状況(孤独が持続する期間や情緒的につながれる相手の有無にもよるが)』は誰もが嫌なものだということくらいは一般論として言えるだろうが、ただ誰かが側にさえいればハッピーなわけでもなく『結婚・血縁・昔馴染みの好ましくない腐れ縁(自分にとって好ましくない関係だが一方的に絶縁できるわけでもないしがらみ)』がストレスになり続けているような人もいるわけである。
『側にいるだけで気持ちが明るくなって前向きにハイになる(その人を見て言葉を交わすだけで何だかとても楽しいし安らぐ)ような相手・関係』というのはむしろその場の瞬間的なひらめき(それが恋愛・結婚・老後で日常化・長期化すれば色あせやすいがそれが人生が簡単ではないということかも)の中にあったりもするので、何が正解かというのは(深い人間関係の時間の積み上げや歴史の長さこそが一番大切という価値観もあることはあるのだが)究極的には死ぬまで分からない部分もある。