団塊ジュニア世代が40代前半になり、出産可能な女性の絶対数が減少、未婚率も高い。女性特殊出生率の多少の上下が意味のない段階となり、経済・財政・社保の再均衡が求められる。
出生数、100万人割れへ=統計開始以来初、16年推計―少子化止まらず・厚労省
晩婚化・少子化は近代社会が成熟して市場経済が飽和、女性の権利拡大と雇用増加(自立能力向上)が起これば、どの先進国でも必然的に起こる現象である。個人の美的感覚や要求水準も高くなり離婚率が上がったことも影響する。昭和期までの『生きていく為の皆婚』から『幸福追求の為の選択的結婚』への変質も速かった。
なぜ昭和初期までの女性はみんな早くに結婚して4人も5人も子供を産むのが当たり前だったのに、今の女性は晩婚で子供を産まないのかという高齢者の疑問は愚問であり、昔の女性の結婚・妊娠は『ほぼ不可避のライフイベント・結婚したら子作りは義務に近いもの』であって、それ以外の生き方のモデルは特殊・困難であった。
恋愛結婚の割合が高まった現代でも、したくてしたくてたまらない結婚、産みたくて産みたくてたまらない出産にいける男女は、かなり幸運な部類の人であって、一定の年齢では『人生設計上の功利的判断(それをしなかった場合の将来のリスク・周囲の友人や社会一般の動向との調和)』がゼロな人はまずいないのである。
出生数100万人割れは予測されていたが、一気に99万人も割り込んだのは、減少速度が早い。団塊ジュニア世代の駆け込み出産や30代の出産増加で女性特殊出生率は押し上げられているが、今の20代の恋愛・結婚・出産は早いか遅いかの二極化が進む、男女の非交際層・恋愛行動をしない層が増えている事も懸念される。
少子化対策で『月に何十万円かお金を出せば産んでもいい』みたいな意見もあるが、高額の奨励金と引換えの出産数増加は、費用対効果で『平均前後の雇用・所得にまでいける子供は増えない(今後の技術・雇用・市場で平均所得を稼げる人材になるハードルが高く、かけた金が税で返ってこない)』という逆効果になる恐れがある。
少子化問題は『人口減少』だけが問題というよりも『経済規模・社会保障を維持するための財源不足』が問題であり、低所得や無職、犯罪者、不適応などにならずに『一定以上の所得を稼いで税・保険料をきっちり納められる子供』を大勢育てられる見込みが立たなければ、お金をかけて産ませるだけでは意味がないのである。
だがこの少子化問題の本質が皮肉なことに、『子供を持つモチベーション』を下げてしまっている。『労働力や財源としての子供の必要性・中期的な若者の生活と雇用の負担増大(不安増大)』というマクロな構造が透けて見えているために、幸福追求が人生の主題になっている現代人は出産により計画的かつ守りで慎重になる。
貧しくて子供を大勢持つには、上西小百合議員ではないが『うちはお金がないから中卒高卒で家を出て働いてお金を入れて』というくらいの親の意識がないと難しい。昭和50年代までそういった親子関係は普通で経済事情で学校に行けず我慢して就職するのはざらだったが、子育て・子の人生支援の捉え方は全く変わってしまった。
ヒトの生物学的な生殖戦略は、一般に少なく産んで長い期間をかけ大切に育てるだが、その『大切に育てるレベル』が20世紀と21世紀では異質といっていいほどにかけ離れ、今の『子供の人権・教育・職業・幸福追求への配慮』を世間並みにやろうとすれば相当お金がかかり、戦後皆で最低ラインを上げた。
そこには日本の伝統的な『恥の文化』と『世間体の見栄と虚勢の競合』もあるのだが、職業・所得・権威・持ち物などの馬鹿げた階層意識は稀であるとしても、最低限のハードルを『飯を食わせて義務教育を出せばいいの昭和中期以前の基準』に置いて我慢させられる親が現代では激減した。
人間は将来予測や主観的幸福感にこだわることで、『生殖・子孫のみを自然に至上命題化できるわけではない(敢えて子供を持たなかったり増やさないことが多い)』という意味では、他の生物と比べて『本能が壊れた動物』ではある。近代社会は経済・社会保障で人生が予定調和的に管理・計画されすぎて、生命力は萎縮しやすい。