『一人で過ごす時間』が価値があるのかつまらないのかは、その人の『世界観の広さ・主体性の強さ』で決まる

年齢を重ねるにつれ、一人でやりたい事が増える人とそうでない人は分かれる。一緒にいて『楽しい・安らぐ・有意義』な他者ならば、時間・労力を割いてでも誘いに乗りたくなる。

ひとりで過ごす「つまらなさ」こそ、豊かさの証し 「誘いを断る勇気」を持って

一緒にいて『楽しい・安らぐ・有意義』な他者でもないのに、その人と定期的に会ったり誘いに乗ったりする理由は大きく、『仕事・家族・収益・親友などの必要性及び所与性』か『孤独や退屈の回避・社会通念や平均への準拠』である。自分にとって価値や魅力、良い刺激、安らぎがある人と会うことには、大きな価値があるが。

10代~20歳前後ならまだ『自分一人だと何をしたいか分からない・どうして時間を過ごして良いか分からず退屈』もいるかもしれないが、30?40代以上になって『仕事・家庭などやるべきこと以外の自分でやりたいこと・集中できること』が何もないからとにかく誰かと一緒にいたいというのは未熟・不安定だろう。

『仕事・家庭などやるべきこと以外の自分でやりたいこと・集中できること』というのは、趣味・教養・文化・鍛錬・思索・ライフワークといった『自分の世界観の広さ』とも関係しており、こういった一人で黙々と突き詰めて終わりのない自分の世界が全くなければ、自分の自己定義や精神的安定を『他者』に依存しやすくなる。

自分の自己定義や精神安定を『他者』に強く依存すると『承認欲求・愛情飢餓・共感体験の過剰(誰かが常に自分を見て認めてくれないと自らが空虚に人生が無意味に感じ怖くなる)』のリスクがある。常に人を求む依存がしがみつきになると『別離・裏切りに対する絶望・落胆・報復』で自滅的な病気や犯罪に落ちる例もある。

『一緒にいて楽しい・安らぐ・有意義』などの共有体験を誰かに与えられる魅力的な他者になることも人生の目標の一つになり得るが、『自分の世界や自己定義がないから他者に依存してしがみつく』というのは、ストーカーやDV、別離による犯罪などとも結びつく恐れのある人格・関係の未成熟さでもあり…

『来る者拒まず・去る者追わず』で自分にとっての相手(相手にとっての自分)の価値・魅力・必要などもそれとなく考えながら、相手が求めてきて自分も会いたいなと思う人であれば誘いに乗り、お互いに嫌な部分が限度を超えれば離れ、嫌がられれば距離を置きという感じでこだわらない飄然とした心理も培っていくべきではある。

一対一や少数の集まりは『本人たちの感情・好き嫌い・目的』次第だが、群れるのが好きかは、既存集団内におけるパワーバランスも関係する場合がある。『持ち上げられちやほやされる側・自分が話したいことを話す側』が、半ば接待的な満足を得ることもあるが、職場・取引・先輩後輩等の接点あればこその関係になりやすい。

とはいえ、究極的には『完全な孤独・モノローグ(一人語り)のみの言語使用・一切の共通体験や共感なし』には大多数の人は耐えられないわけで、いつも頻繁に会うとか遊ぶとかとは別の次元で、『気の合う人との程よい付き合い(常に一緒まではストレスにもなるが)・自分の体験や考えをお互いに話し合える相手』は必要だろう。

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