フクロウカフェに対する動物愛護精神からの内部告発と現代で高まる動物への共感性・倫理観

倫理観が高度化しネットで内部告発が拡散する現代は、動物使用のビジネスはペットショップや動物園でも一定のリスクがある。動物を『愛護・野生・絶滅危惧』と『食用・家畜・使役』に分類するのも人間側の倫理だが。

劣悪な環境で次々死んでいくフクロウ…フクロウカフェの元スタッフが内部告発

そもそも論では動物界には倫理(共感・生命尊重による手加減)はなく、動物同士の捕食や縄張り争い、遊び(弱い動物の虐待)の有形力行使は『弱肉強食・食物連鎖の自然の摂理』でしかない。動物の権利は自然の淘汰圧を抑え生態系の頂点に立った余力ある人間の『倫理的な自己尊厳・自然管理主義』の発露でもあるだろう。

『種の保存』も利己的遺伝子の個体保存で、『種』というグループ全体で意志的なDNA保存の行動があるわけではない。動物は生命維持や自己複製するがそれは意識的な判断や選択ではなく、存在の持続が『善・正』とする価値観すら人間的な感情と観察に依拠する。自然は生存・生殖の成否の結果をただ静かに積み重ねる。

可愛い見かけの動物に特別な愛着を抱き、人に形態が近く知能の高い動物により親近感を抱く。絶滅危惧種を見れば『生物多様性のカタログ・生態系のサイクルによる資源』から人は保護したくなる。だが本当に人にとって必要な食料や資源で代替物が見当たらなければ、人は動物を屠殺・加工・利用する事を躊躇わないものでもある。

動物愛護の精神は人間原理に基づく人間の倫理観や心地よさ、尊厳維持(高度な倫理観を持つ自己証明)の側面が強いが、一方で『弱い動物を人間になぞらえて大切に扱うという教育・前提』は人同士の利己性・弱者虐待を薄める効果もある。まぁ可愛い動物しか可愛がらない人だと人も気に入った人しか優しくしない問題はあるが…

フクロウカフェや猫カフェは『人間の心の癒しのビジネス化』で、昭和以前なら倫理問題も指摘されなかっただろうが、近年は金魚すくい・ひよこ釣り・ペットショップも『常に大勢の人に見られて触られる動物のストレス・寿命の短縮』が動物の権利侵害・虐待と非難されやすい。人以上に動物の感覚に想像的に共感する人は増えた。

生命や自我を絶対視する『生命の神聖化』は進むが、実社会で生きる人の生命・自我・尊厳が『可愛がられているペット』より共感的に尊重されているかは定かでないw人って『物言わず耐える可愛らしく見える存在』に対しご主人様的保護願望があるが、動物好きだと、あれこれ主張・反論する自我の強い人が逆に嫌いだったりも…

知能が人間に近くて見かけも可愛らしい動物は『人間と同等以上に保護すべき』だとなるが、知能が自分と同等以上の水準で自我的・言語的に対抗してくる他者(人間)は『自分にとって邪魔な存在』にもなりやすい。保護される動物はしゃべれない事で人の思う『理想的な可愛くて謙虚な動物の意識』を勝手に想像・投影されている。

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