安倍首相の歴史的使命としての『憲法改正』と『歴史認識・国家観』について、庶民として考えておきたいこと:1

安倍晋三首相は憲法改正を歴史的使命にしていると主張するが、自民党中枢の安倍首相・石破茂幹事長などが目指している『改憲の方向性』は、『立憲主義(国民の人権保護の原則)』に違背する国権強化であったり、戦後日本の歩んだ平和主義の路線を『中国脅威論・集団安保(米国追随の集団的自衛権)・軍事力強化(専守防衛の放棄)』で転換させようとするなど大半の国民にとって必要性の薄いものである。

改憲「私の歴史的使命」…首相として初の墓参り

日本国憲法と普遍的な倫理主義を中心においた『戦後レジーム』を否定し、大日本帝国時代の統治原理や国民(臣民)の国体への自発的奉仕を理想とするかのような安倍首相の歴史観は、現代の中国が歩まんとしている『かつての日本のエスノセントリスティック(自文化中心主義)な歴史』を再びなぞり直すような危うさがある。

日本国憲法を改正することそのものに問題があるのではなく、かつての大日本帝国時代のような『個人』を『全体(国体)』の道具になるように教育・統制する社会体制や権利が制限された国民意識のほうが、現代よりも望ましいとする本音の部分にある『ノスタルジックな国家観・歴史観』に危うさを感じる。

保守的な改憲論者の多くは、『国民の自由・権利の保護』よりも『国体明徴(従属すべき国家観念の象徴化)による国民の連帯・忠実』のほうに関心があるが、それを表立って主張すれば改憲に賛成する有権者は現代では殆どいないので、今の憲法のままだと『良心・倫理など通用しない外国や外国人にいきなり攻撃されるぞという不安感』をあの手この手で煽り立てて改憲の要に納得させようとする。

戦時には天皇が果たしていた国体の抽象観念を『新たな民族主義・国家主義』として取り戻すためには『外部の敵(仮想敵)』が必要になり、『平和主義・自由主義のままの社会』であること自体が望ましくないという結論に行き着き、『外部の敵がいるから軍事力強化はやむを得ず、自由な思想・行動の制限が必要』というあらゆる独裁国家が採用しているドクトリンへと傾斜する。

20世紀半ばまでの国家間対立や戦争・帝国主義の肯定を前提とする『普通の国論』を持ち出して、『自衛隊(個別的自衛権と現在の兵員・兵器・装備)』では国民を守れないから、場合によっては敵を攻撃できる『軍隊』や『先制攻撃能力(爆撃機・弾道ミサイルあるいは核兵器まで)』が必要なのだという改憲論者も少なくないが、『武力行使抜きの外交的努力の前提+自衛隊の個別的自衛権+国際社会との連携』で対抗できない軍事的危機があるとするのは幻想である。

仮想敵国を定めた自国の軍拡は相手の軍拡を招いて緊張を高めるだけではなく、そういった『軍拡・軍需(軍産複合体)に必要な国民のアイデンティティ変更のための教育・常識の変更』も為される恐れがあり、結果として暴力による問題解決を回避する平和主義の価値観そのものが弱まっていくことになる。『教育・軍拡・紛争ネタ(外国人嫌悪)』の今、日本が中韓を非難している原因でもある『政治的・メディア的なマッチポンプ(自分たちで外国を嫌悪する好戦的な国民を教育したり争いのネタを探したりして軍部・軍事力・軍事産業の必要性を是認させ~のループ)』が起こるだけなのである。

『平和のための軍拡』というのは原理的かつ歴史的に虚妄であり、米国がそうであるように肥大した軍事力は必然的に争いの種(自衛にかこつけられる理由)を探し出すようになり、世界最強の軍事力を持っていればこそ引き寄せる『国防・テロの不安』に終わりがないという喜劇めいた事態も起こってしまう。

軍事力で脅したり痛めつけたりして従わせるというパワーポリティクスは、それに忍従したり怒りを溜め込んでいる外国・外国人が『パワーバランスの縮小(自国の経済成長・軍事拡張や核武装)・国家安全保障のセキュリティホール』を狙って何らかの反撃・テロリズムを企てる十分な理由になる。

平和な世界や自由な領域の拡張は『軍事力の競い合い・万人闘争(やるかやられるか)の民族意識の強化』ではなく『人々の意識や考え方・自己アイデンティティ』を時間をかけて平和主義や国際協調、対話と交渉による妥結に近づくように変えていくしかなく、軍事や民族団結に頼ればどうしても『排他的・競争的な争いあいの根(自分たちの集団だけの利益を相手から奪い取ってでも確保して良いの価値観)』が残ったり広がり始めてしまうことが運命論的に決定されてしまうのである。