森友学園経営の塚本幼稚園の洗脳的な愛国教育は何が問題か?:子供の信じ込みやすさ、国家・為政者と一般国民の力関係

近代国民国家は国民を国家(共同体)に忠誠心を持つ兵士・労働者として教育し外国と競わせる『戦争機械・国民の思想統制』の歴史を持つが、森友学園の教育は『個人否定の大日本帝国・臣民への逆行』か……

園児に「首相がんばれ」宣誓 森友学園運営の幼稚園で

森友学園経営の塚本幼稚園では園児・保護者はみんな『自民党・公明党・安倍首相の支持者』でなければならないかのような運動会の宣誓だが、この『個人の思想信条の自由』をあらかじめ刷り込み・集団圧力で封じる教育方針・人格形成そのものが森友学園がヘイトする『韓国・中国の多様性排除(反日前提)の教育方針』ではないか。

中国・韓国のヘイト発言、園児を討幕の長州藩士になぞらえた掛け声にせよ(先祖が旧幕府・会津藩ならダメなのか)、歴史認識・国際認識や政治理念が偏り過ぎだ。何も分からない幼稚園児に丸暗記させ唱えさせるにしては内容が『政治的・排他的』で、何かを嫌わせたり恨ませる事を目的にした教育は人格形成上も問題が多い。

森友学園の教育方針に理解を示したとされる安倍首相はよほど戦後日本の立憲主義や自由主義、個人の尊厳、国際協調が嫌いなのかと疑われても仕方ない。教育勅語奉読の問題点は『君臣秩序・臣民の身分意識』で、権利的に平等な個人の前提を覆し、天皇・国家を最上位とする上下関係と相互監視の中、滅私・抑圧・使役されやすい。

さすがに戦前日本のように天皇の御真影・御文書は掲げられていないが、国家・君主(総書記)の維持発展を第一義の目的として生きよ、余計な個人の思想信条を持つなとする北朝鮮的な教育風景・人権感覚とも重なる。北朝鮮も大日本帝国時代の日本の天皇主権下の国民統治方式を参考にした部分があるとされるが…

国家への忠誠心・自己犠牲の度合いやみんなが持つべき価値について、『相互監視の踏み絵をさせるような教育・社会』は現代日本では受け入れられない。中国・韓国をヘイトしない者は日本人に非ずの教育は、嫌っている中韓の真似事でもある。日本人でも一緒に中韓を嫌わなければ仲間ではないは、いじめ心理とも共通する。

国家・政府と個人の価値を区別する教育が大切であって、自分が中国・韓国の人たちから『あいつは日本人だから悪者という決めつけ』をされたら不快であり、『日本人だから歴史や政治についてこう考えているはずだ』と言われても『私は違うという個人』も沢山いるわけである。日本人を中国人・韓国人に置き換えても同じである。

そもそも現代の先進国で生きる人の大半は『仮想敵国の人を殺してでも政策や主張を貫きたい政治や領土・歴史観を中心に置いた生き方をしてない』わけで、外国の個人の生命・暮らしを無視した『政治的・歴史的な過激思想』は中韓政府の反日教育にせよ森友学園の洗脳的な園児教育にせよ、外部からの刷り込みや焚き付けが多い。

個人が困窮し自由主義や自己責任の可能性を信じられなくなると、より大きな集団や権力に自己同一化して(自分を苦しませる仮想敵と戦う為に)自発的に服従する。エーリッヒ・フロムがナチスドイツのファシズムに賛同した庶民の心理を分析した『自由からの逃走』や『権威主義的パーソナリティー』の影響は現代でも残る。

国家・民族・政治集団は『小さくて弱い個人の心』を守ってくれる集団幻想のイデアのようなものだが、国家・民族・党の維持発展を至上命題にしすぎると逆に『人としての心・善悪』を失うことがある。国家や民族のためなら人一人の命、特に仮想敵の人の命、皆と同調しない裏切り者の命は塵埃の如きものとして切り捨てられる。

国家にせよ民族にせよ歴史物語にせよ企業にせよ、何か大きなものと一体化して自分の存在価値の底上げを図らなければ落ち着かないような不安・思惑がないか、常に問いかける姿勢を持つ事は難しい。国も民族も社会も歴史もないとして、我独りでもふらつかず立てるか、森友学園にはむきだしの個人の実存の想像が欲しい。

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