生物学的な性差のセクシャリティ自体が不平等で生殖を優先させる動物的側面を持つ。男女・イエ(部族)を超えた公平・尊重や暴力・強制の廃絶を求める近代人は倫理的だが非自然的でもあるのだろう。
『主人・嫁の言葉』が女性を独立した主体(個人)として見なしておらず、男性やイエの下位にある身分・役割を表象する男女差別的な言葉ではないかと言われれば、無論、歴史的に見て『女性が独立した経済・意識の主体として生きられた時代』は殆どなかったという意味においてそうだ。男性もまた近代以前は個人ではないが。
近代的な自由で平等な個人は、現実の歴史・生活・労働の実態に即せば、『啓蒙主義的・イデア的なフィクション』に過ぎない。近代以降の身分制や強制権力(共同体構成員に死を命令する事もできる公権力)を弱めてきた歴史は『社会的動物(生産的生殖的な構成員)としての上下・役割・身分の意識の解体的自由化』でもあった。
結婚制度・家族や国家・企業労働などにおいて、『主人・嫁のような関係性・上下関係・役割分担を示す概念』は男女に限らず上司と部下、為政者と被統治者、経営者(資本家)と労働者などさまざまな二項対立概念としてあるが、それらは現時点において『廃止すべき賞味期限の切れた時代遅れの概念』とまでは言えない。なぜか。
その理由は『社会全体(集団内部)の機能的・持続的な役割分担』に大多数の人がコミットしなければ生存維持さえ困難になりやすいからで、更に『個人間・性差間の能力差および意識差』によってすべての人間が『独立した主体としての意識・責任を享受することは現実能力的あるいは精神的・選好的にほぼ不可能だから』である。
ボーヴォワールは『第二の性』で『人は女に生まれるのではない。女になるのだ』と述べたが、現実には女性性は男性性と同様、完全に『ジェンダー(社会的・教育的な性差)』のみで規定されるわけではない。『近代的理性(文明社会・法律の庇護)以前の半動物的な生存・生殖・暴力の原理』にも相当影響されている。
男女平等主義は『法律的・社会的・経済的な処遇』において現代ではほぼ絶対的な黄金則であるが、それは『女性の希望・選択が妨害されない意味の平等化』であって、『主人・旦那・嫁の概念に象徴される家族制度の相互扶助的・納得的な役割分担や性差的庇護の否定(強制的なバラバラの自立・個人化)』までは射程に入らない。
原理主義の男女平等の難しさは『女性を独占したい男性・男性に守られたい女性の共同幻想』によってジェンダーフリーにまではならない所にある。『男らしさ・女らしさ』は理屈・倫理の上では否定できるが、男女関係や性選択では一般的な性的魅力として機能しやすく、社会的公正と個人的・動物的な好き嫌いがぶつかりやすい。