『働かざる者、食うべからず』と『四十歳を過ぎたら、人は自分の顔に責任を持たなければならない』は誰の言葉なのか?

『働かざる者、食うべからず』を資本主義の労働道徳と勘違いしている人は多いが、元はプロレタリア独裁(全労働者国家)を理想とする共産主義の道徳律だった。資本主義は資本と経営・投資・土地所有の不労所得を容認する経済制度だが、ロシア革命の指導者レーニンは聖書に由来する『働かざる者、食うべからず』で不労所得を戒めたとされる。

『働かざる者、食うべからず』は、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節にある『働きたくないものは食べてはならない』という一節が語源とされている。

『働かざる者、食うべからず』と同じく、世間に流布する格言で発言者が余り知られてないものに『四十歳を過ぎたら、人は自分の顔に責任を持たなければならない』がある。これは米国の16代大統領エイブラハム・リンカーンの言葉で、閣僚の一人を選ぶ際『ダメだ、顔が気に入らない』で却下しその理由を述べた故事にちなむ。

提案を否定されたブレーンが『顔で閣僚が勤まるのですか?』と聞くと、リンカーンは『(青年期から長年月を経た人の顔は知性・性格・経験・教養の集積であるから)勤まる。四十歳を過ぎたら、人は自分の顔に責任を持たなければならない』と答えたとされる。顔というよりは風貌・印象から滲み概ね共通認識を作るものか。

古代ローマの賢人キケロは『顔は精神の門にして、その肖像なり』と喝破したとされるが、職業作家になる前の司馬遼太郎はリンカーンの言葉に類似するものとして、シェークスピアの人間が自分の人生史によって顔貌を変えていくとする『神は汝に一つの顔を与えた。ところが汝はそれを別の顔に造りなおした』を上げていた。

無論リンカーンなりの人間観に過ぎず全ての人に対し当てはまる法則性はない。だが長年月の表情・感情・行動によって、善人は善人らしく、悪人は悪人らしく、上品さ・下品さ(丁寧・粗雑・姑息・意地悪)、エネルギー量(活動・思索)は顔つきにでやすくで、典型の顔貌(表情・目つき・印象)が造られる大まかな向きはあるかもしれない。

スポンサーリンク




楽天AD