江戸幕府を開いた初代征夷大将軍・徳川家康(松平氏)の祖先と大久保忠教の『三河物語』について。

徳川家康は征夷大将軍に任じられるために、新田氏の後裔の『清和源氏』を名乗っていたが、それ以前の三河守に任官された時には家康は『藤原氏』を名乗っていた。

当時の官位・官職は家柄(姓)によって就任できる官位の上限が細かく決まっており、その厳格な前例主義・慣例踏襲・儀礼主義にまつわる煩雑な伝統と知識の体系として『有職故実(ゆうそくこじつ)』があった。

家康の元々の姓である『松平氏』は祖先が朝廷・武家の名門一族(藤原・源平)とつながっていなかったため、実力があっても高い官位と結びつく官職に任官してもらえない恐れがあった。

前例主義・朝廷権威の有職故実は、破ることが困難な暗黙の慣習的ルールとしてかなりの心理的強制力を持っていたからであり、天下人の豊臣秀吉も五摂家筆頭の近衛前久の養子となり(形式的に藤原氏に自分を組み込んで)、『豊臣姓の新設』によって関白太政大臣の地位を得ることができた。

源氏一族・皇族だけが歴代征夷大将軍に就任してきたという過去の有職故実によって、秀吉は当時最強の武将でありながら、武家の棟梁の征夷大将軍にはなれなかった(必死になろうとしなかったのもあるが源氏の足利義昭からは養子の申し込みを断られた)のである。

しかし、先例蓄積の有職故実による官職の任免は朝廷の権限であるとしても、武家を取りまとめる天下統一に至った豊臣秀吉にしても徳川家康にしても朝廷(天皇)が武力で対抗できる存在ではない威圧は重かったはずである。

秀吉・家康は当時最大の武装連合勢力のボスであるから『家系図の捏造』というのは朝廷も周知のことであって(本気で秀吉が平氏、家康が源氏の末裔だなどとは思っていないのであって)、嘘や捏造と分かっていても当時の最高権力者には然るべき官位・官職を与えざるを得なかっただろう。官僚的・形式的な文書主義による有職故実の遵守として、『望んでいる官職への任命はするからそのための家系図の体裁を整えよ』という朝廷側の忖度(形式的な天皇の家臣化による安心獲得)があったことは想像に難くない。

松平家は1566年以前には、新田氏(清和源氏)の傍流の得川氏(得河氏)の系図を得ていたとされる。その家系図をいじって新田氏の末裔を松平家と結びつけることで、松平家が藤原氏にも清和源治にも遠い過去にはつながっていた(征夷大将軍・高い官位を得る血統上の資格がある)という家系図の捏造を行ったわけだが、『家系図・血統の書き換え』は日本史の常である。

松平氏の祖先について直接的に言及した人物として、徳川幕府の初期に大名除封で冷遇されて遺恨を持ったとされる譜代大名・旗本の大久保彦左衛門(大久保忠教)がいる。松平氏と同じ山地の『松平郷』を故郷としてきた大久保彦左衛門は門外不出の『三河物語』を書いた。その書物において、徳川氏の祖先は清和源氏だとか藤原氏だとかいう高貴な家柄の出自ではなく、14世紀頃の粗末な身なりをした放浪の時宗僧の『徳(徳阿弥)』なのだと伝えている。

寺を持たず仏教経典の学問もしない漂白の時宗の遊行僧は、室町時代初期の当時において正規の権威的な官僧から蔑視される存在であり、徳は父親と共にはじめ吉良町の豪族だった酒井家に逗留して、徳は酒井家の娘との間に子供をもうけることになったのだという。

この酒井家でできた徳と酒井の娘の子供が、酒井広親(さかいひろちか)であり、徳川幕府でも酒井家は大老・老中を多く輩出した徳川家臣団の筆頭格とも言えるべき家柄なのだが、元を辿れば徳川家の祖先の子供が『酒井家の家祖』になっていて、やはり日本史の権力機構には血縁のつながりが張り巡らされているのである。

『酒井家・井伊家・土井家・堀田家』が大老四家であるが、江戸幕府でそれなりの出世もあったにせよ、三河時代からの古参譜代の一つである大久保家はこれらの家と比べれば忠誠に対して十分に報いられなかったとの不満もあったのかもしれない。

『三河物語』において大久保忠教は、酒井氏の娘を『いたらぬ者(身分の低い下賤)』として意図的に貶める記述をした。家祖の酒井広親は三河・松平郷の時代から松平氏に仕えて譜代家臣となっていたのであり、親戚であると同時に絶対忠義を尽くしてきた最古参の家臣でもある。

時宗の僧である徳阿弥は、酒井氏だけではなく矢作川上流の松平郷にいた豪族・松平太郎左衛門信重の娘にも男子を産ませており、僧侶といっても戒律を守るような殊勝な禁欲的僧侶ではなかったわけだが、軍事・農耕の才覚にも優れていたらしく、その松平氏の養子となり酒井氏を家臣に加えてからは、あっという間に山間地方にある松平郷を徳阿弥一代で掌握したのだという。

松平氏の養子となった徳阿弥は僧侶をやめて髪を伸ばした地方豪族として勢力を得、松平太郎左衛門親氏(まつだいらたろうざえもんちかうじ)と名乗るようになった。この漂白の僧侶から地方豪族となった松平親氏(徳阿弥)が徳川将軍家で、個人として遡れる最も遠い祖先ということになる。

こういった昔話も踏まえて譜代の徳川家臣団の忠誠心があるわけだが、徳川家康の時代になっても、家康は後半生において酒井氏と井伊氏を非常に厚遇・信頼して、徳川家が本格的な戦に出る時には、必ずこの譜代の二家を先鋒に立てることを慣例化していったという。

幕末に桜田門外の変で暗殺される井伊直弼は有名だが、基本的に戦争による論功行賞がない太平の江戸時代には、家康の側近として三河時代の古くから忠誠を示し仕えていた古参譜代は、19世紀に至るまで(酒井氏でも本多氏でも領国・石高を変える転封は繰り返し行われたが)改易処分で取り潰されずに生き残り地位を維持していた特徴がある。

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