竹島は客観的には岩礁に過ぎず、大半の日本人・韓国人は実際に上陸しないという意味で『認識上の固有の領土+民族意識のぶつかる焦点』だが、国家観念が希薄な19世紀まで日韓共に無関心ではあった。
竹島の領有権は国際法上は日本にあるが結局、明治維新でアジアで最も早く近代化した日本が衰退期の李氏朝鮮を圧倒しており、国家間競争における領土拡張の重要性を認識していたからこそ、日露戦争に勝った勢いもあって1905年に竹島を日本領に編入したのである。当時の大日本帝国と李氏朝鮮の力の差も大きかった。
竹島問題の原点は、韓国が朝鮮半島の侵略過程で竹島を日本が一方的に編入したというように、アジアの小国でロシアに一矢報いて自我肥大していた大日本帝国はそもそも『李氏朝鮮を対等な独立国家と見ていなかった事』が前提にある。ロシアの南下政策のために朝鮮を防波堤にしようする征韓論以来の一貫した覇権主義はあった。
近代化推進の日本は李氏朝鮮よりも圧倒的に軍事力・経済力・文化水準が高かったからこそ、当時衰退していた李氏朝鮮は『竹島含む海洋島嶼群の一方的な領土編入』に物申せなかったのであり、20世紀初頭の段階においては強者である日本が弱者である朝鮮半島を巡って、強者であるロシア(その後のソ連)と睨み合っていた。
竹島が固有の領土であるかは、20世紀初頭でも『過去の文献史料・領有権の議論・発見の歴史の先後』で決めたわけではなく、帝国主義の苛烈な領土争いの中で『日本領であると宣言しても他が競合できない国力の強さ』を日本が持っていたという事情が大きい。日本と朝鮮の近代の国力差と併合が感情的不満の根にある。
国家の独立や王朝の存続さえもが危ぶまれていた李氏朝鮮が、大量の犠牲を出しながらも白人国家ロシアを打ち破って勢いに乗る大日本帝国に対して『領有権争い』を仕掛けられるはずもなく、段階的に保護国化されていく過程で朝鮮は竹島どころか外交・内政含む国家主権の大半を日本に委譲する条約にサインしたわけである。
日本と韓国の民族感情の対立や歴史問題の根源にあるのは、『韓国併合に至るまでの朝鮮王朝の弱さ・屈辱(旧冊封体制の上下関係の逆転)』と『日本敗戦に至るまでのアジア圏における日本の強さ・領土拡張』であり、昔強かった時代の日本に武力で威圧されて自国が主権さえも放棄してしまった歴史自体がトラウマともいえる。
日本が韓国に竹島を奪われた経緯は、『敗戦後の領土帰属・国土防衛』に曖昧さの残る混乱期に、李承晩ラインを一方的に設定されて不意を突かれたということだが、サンフランシスコ講和条約の発効前後で敗戦国の日本が即座に手持ちの防衛力・海上警備隊で『竹島奪還』に動くことは難しかっただろう。
あらゆる戦争は自衛戦争の大義名分を掲げて戦われてきたように、ようやくアジアの帝国主義国家・日本を破って占領支配したアメリカが、1951年の段階で日本が防衛部隊を配置していなかった小さな岩礁を奪還するため海上兵力を投入したいなどと言っても、アメリカは許すはずがなく実際韓国の実効支配に干渉しなかった。
韓国の独島占領は国際法の実効性の空隙を突き、米ソの代理戦争である『朝鮮戦争』の自由主義勢力のフレームワークを利用した速攻の謀略だった。米国が韓国と敵対しないはずの『米ソ冷戦構造』を逆手にとった李承晩の策である。当時の米国はソ連・北朝鮮を睨み、日本と韓国が岩礁で揉める勢力分解を認めるはずもなかった。