現代はニーチェの貴族道徳のように『強さ・美しさ』で比較競争するが、『弱さ・醜さに寄り添う心』もまた人を動物と隔てる倫理的本性である。
「見た目問題は障害」バケモノと呼ばれた男性の願い 就活で心砕かれ…「君に会いたい」将来を導いた出会い
容貌障害が『広義の障害』として認知され、心身障害・知的障害と同じく公的支援を受けられるようになる事が目標なら可能と思うが、『自分の心の救済=自己肯定・劣等感克服』を成し遂げるには公的支援に加えて、現代の世俗的な価値判断や他者の反応・選好に振り回されない『自分の核』を構築する必要がある。
『見た目問題』と『美醜問題』の差異を論じたこともあったが、見た目問題は『遺伝子異常・先天疾患や腫瘍・大怪我で見た目が大きく変形・損傷した者』が社会経済的に不利な待遇をされる問題であり、正常範囲の容貌から極端に逸脱して社会生活や就労・交流が著しく困難になったり差別・偏見で心的外傷を受けやすくなる。
『見た目問題』は個人単位の偏見差別とも無関係ではないが、個人で好かれるか受け容れられるかの面に注目し過ぎると『美醜問題』との量的な差異になる。見た目問題は、企業が面接をせずに就労できないとか、学校・会社のコミュニティから阻害される、公的支援がないとかいった社会経済的な構造・待遇の問題に焦点がある。
見た目問題も美醜問題も、記事のように『たかが顔(見かけ)で悩むな・頭や体が正常に機能するなら問題ない』と軽視されやすいが、現代と戦後を比べても『見た目の自己愛的な写真・商業文化』に偏って、かつての『見た目より中身の道徳』のリアリティが弱まった。道徳規範と選好・社会風潮の乖離場面が増えた。
見た目問題の難しさは、どこからが容貌障害なのかの境界問題もあるが、公的支援・経済待遇だけでは解決しない『他者からの差別・偏見を無くすこと』にどのようなアプローチや目標設定ができるかという事だ。人の『愛と承認の欲求』は普遍的だが、差別・偏見がなくてもそれらを満たすのは大変なものでもある。