片岡鶴太郎(62)が30年間に及ぶ別居状態にあった妻と正式に離婚して、ヨーガ(ヨガ)の鍛錬・修行をはじめとした自分のやりたいことのみに専心する生活を送っているというニュースが流れた。
妻や子の家族を捨てたわけではなく、妻に対しては今まで通りに生活費を支払ってその余生を保障する。家族としての面会や援助は続けるが、書類上の配偶者・家族としての『俗縁』を綺麗に断ちたいというのは、ヨーガ修行に真剣になっている者であればそう考えてもおかしくはないだろうなという思考・価値観の変遷ではあるのかもしれない。
片岡鶴太郎という人のキャリアは『お笑い芸人・俳優・ボクサー・芸術家(書家・絵画・陶芸)』と移り変わりが激しいものの、プロボクサーはライセンス取得をしてセコンドに立っただけとはいえ、それぞれの道で一定以上の成果・評価・収入を得続けている人並み外れた多能多才な人物であり、『技術・学習・鍛錬・自己変革』のためのストイックな努力ができる人物でもある。
良くいえば多能多才でやれば何でもできてしまう器用な人物、悪くいえば移り気で一つに集中できないあれもこれもの欲張りな人物といえる。子供三人を作りながらも結婚五年後には『結婚していても家庭の雑事・関係に縛られず、自分のやりたいことをして、付き合いたい人と付き合いたい』という理由から家を出て一人暮らしを始めたのだという。
芸能人として成功し、その後は芸術家としても高く評価されるようになったから、十分なお金は送金し続けていたとは思うが、常識的に考えれば、家庭人(夫・父親)としては不向きなパーソナリティーの人であり、家族を優先度の第一にはしない生き方(あくまでその時々の自分の価値観や目的こそを優先)の人だったと言わざるを得ない。
30年以上の別居期間には、付き合いたい人と付き合うという自由の境地と享楽主義からか、複数の女性芸能人との同棲生活・不倫の疑惑もあるようだが、ネットもなく時代が時代だっただけに、片岡の一人暮らし期間中の女関係が倫理的問題として指弾されることはなかった。
ある時期からの片岡鶴太郎にとって、お笑い芸人としての自分は『生活するため有名になるための演出・手段』であり、俳優としての自分もお笑い芸人としての自分よりは気に入っていたかもしれないが『生活するための手段の域』を大きく超え出ることがなかったのではないかと思う。
お笑い芸人の下積み時代に支えてくれた妻としたという結婚も、片岡にとっては『転機を迎える前の俗の時代の欲望・必要』に類するものであった可能性が高く、60歳以降のヨーガとの出会いによって『俗なるものの止滅』というおよそ社会一般の常識からかけ離れた『宗教的・修行的な普遍性(俗世のあらゆる苦を超越した自己完成)の追求』によって離婚(俗縁の止滅)するに至ったともいえる。
片岡鶴太郎の意識や生き方の転機は、ストイックな肉体改造に取り組むボクシングに熱中した時期に始まり、精神修養・自己表現に取り組む芸術活動(書道・水墨画・陶芸)によって高まり、『肉体の鍛錬・精神の抽出』でなお飽き足らない自己完成の求道に対して、ヨーガとの出会いがその心の空虚な間隙(不完全な自己を完全にしたいという自分を痛めつける修行的な渇望)をぴたりと埋めてしまったのだろう。
毎日6時間もかけるヨーガ体操と菜食主義の食事から始める一日、体脂肪率8%、体重43kgの生命活動を限界まで引き絞った外観の肉体改造というのは、健康法としてのヨーガから大きく逸脱して、『俗なるもの』を止滅させ『聖なるもの』に接近・一体化して『永遠普遍の自己(俗のけがれや迷いの一切を払いし自己)』を完成させるという宗教的・修行的な情熱に突き動かされているものとしか言いようがない。
ある意味では、社会・他者・欲望という『俗』に対して、そこまでしないと心の安らぎや求道の満足が得られない業の深さやコンプレックスを背負っているとも言えるが、ヨーガの歴史に登場する行者の修行の完成が『入定(肉体の死滅)』であったことを考えると、ヨーガというものも気持ちを落ち着ける精神統御の瞑想(呼吸法)や身体の健康増進の体操法を超えて原理的に成りすぎると、生を否定する恐ろしい部分(人間と宇宙の一体化の妄想的な普遍主義)が顔を覗かせてくるのである。
ヨーガのサンスクリット語の原語は『軛をかける・結びつける』という意味であるが、心の作用を統御して何らかの普遍的・超越的な『不完全な自己を超越する何か』に接近したり同一化するというのが、古典ヨーガの一般的な目的でもあった。