仏教で究極的な悟りの境地とされる「涅槃寂静」は、煩悩の炎が吹き消された絶対的な静けさ・安らぎを意味する。あらゆる煩悩の執着やとらわれから解放された絶対的な自由・安楽の境地が涅槃寂静であり、苦しみのない理想の世界を指すこともある。
涅槃(ニルヴァーナ)は通俗的には生身の人が到達できないという意味で「死」にほぼ等しいものと解されることもある。実際に仏陀や聖人の「死」を「入滅・入定」と言い換えることで、涅槃の定義を示すことは多いが、常識的に考えれば諸行無常と四苦八苦の摂理から出られない私たち人間は「究極・絶対の理想的な状態に留まること」は原理的に不可能である。煩悩(=生命活動)の火が吹き消された涅槃は現世にはない。
仏教は古典ヨーガの後に成立した宗教体系であるが、俗なるものをすべて捨て去ることを目標とするヨーガも、仏教と同じく「入定」の概念を持っている。古典ヨーガも究極的な揺るぎない境地を得るための心身統御が行き着くものとして、「結果的な生命活動停止への意思的統御(自殺とは明言しない)」を苛烈な修行法として持つ。
古代インドでは21歳で地下室にこもって瞑想三昧で入定(餓死)したジュニャーネシュヴァラを聖人と認定していた。ジュニャーネシュヴァラは両親の不品行な行いによって村八分を受けていたが、4人いたとされるきょうだい全員が入定(暗室での瞑想継続での餓死)か変死(樹上自殺)をしている。
ジュニャーネシュヴァラにせよゴータマ・シッダールタにせよ、祭祀・倫理・階級に偏重したバラモン社会における異端者としての特徴を持っているが、現代でこんな出来事があれば、ヨーガ修行法を極めた聖人としての行為というより、親に連座する形の痛ましい不幸な連続自殺事件である。
心身統御の最高の到達点として仏教の「唯識・空観(この世や人に実在はなく心が見せて作り出す幻影のようなもので、人は心が見せる幻影に煩悩を抱いて苦しみ続けるという見方)」にもつながる「心の作用そのものを無くすこと」を古典ヨーガは意図していた。
古典ヨーガも時代が降ると、生きながら心の作用そのものを無くすことの不可能もあったのか、次第にヴィシュヌ神をはじめとするヒンドゥー教の神々の心像を思い浮かべ、神に献身して同一化することで自己イメージを拡張する「バクティ・ヨーガ(献身のヨーガ)」にヨーガ修行法の主流の座を譲っていった。
ヨーガが目的とする「俗なるものの止滅」というのは、「人為・肉体・欲望の否定」であるといっていいが、この考え方は仏教の禁欲主義・戒律規範とも重なるところが多い。「俗なるものの止滅」は常に「聖なるものの到来」とセットになっていて、ヨーガや仏教で入定してしまうような過激な行者というのは、何らかの聖なるものに狂信的な態度を取ったものでもある。
なぜヨーガや仏教が「人為・肉体・欲望の否定」を称揚するのかというのは、第一には「苦しみ・迷いの決定的な克服」を意図しているのだが、もう一つは哲学的に有限性・時間の壁を超えようとする「永遠・不変の境地への一か八かの跳躍」といった側面がある。
ヨーガや仏教の狂信的な行者は、単純に現世の生が苦しいから自殺したというよりも、現世の生で得られるもの以上の究極・永遠という聖なるものに接近しようとして、俗なるものの根源にある肉体を捨てたという感じになる。
肉体がある限り、老化と死という有限時間の限界が必ずつきまとい、人為がある限り、成功と失敗、比較という一喜一憂の変化が必ずあり、欲望がある限り、終わりの見えない欲望の充足と不満足に必ず心を乱される。
生身の肉体を基盤として、何かを成し遂げようとする人為、何かを満たそうとする欲望がある限り、人は俗なるものの中で一喜一憂しながら段階的に老いるか病気をするかして、いずれは確実に死ぬしかないという限界とそれを越えようとする方法論の追求は、「聖なるもの・神なるものとの合一化(俗なる不完全なものからの離脱)」を目指す行者の基本認識であった。その意味では、かなり強欲で利己的なところも多い。
古典ヨーガの聖者は、心身の完全なる統御の先にあらゆる活動と心的作用を停止させることによる「永遠・不変への夢」を見たとも言えるが、こういった発想自体は無為自然を説いた古代中国の老荘思想や不老不死の仙薬・秘術があるとした道教などにも通じる文明社会に生きる人間の精神が生み出す思想の一類型ではある。
子孫繁栄を前提とする生の思想であるキリスト教に対し、輪廻(生命循環)からの離脱を理想とする仏教・ヨーガは死の思想のように見える向きもある。だが、最後の審判後の信者の復活(永遠の生命)を信じるキリスト教も、俗なるものを止滅させて涅槃・永遠に接近できるとする仏教・ヨーガも、「俗なるものの確実な死(すべての終わり)の限界」を超え出ようとする弱く小さき人間のイマジネーションが作り出した宗教思想として共通点を持つとも言える。