○日本国憲法の平和主義の特異性は、戦後70年、自国の公権力による「戦争への動員・使役」を許さなかった事にあるが、近代国家の歴史では外国と同等以上に自国と世論による人権侵害が多かった。
《憲法改正論議》衆院選公約にみる各党スタンスと9条以外の論点は? (http://mixi.at/agtKNmK、10月22日)
9条改憲派は「中国・北朝鮮・韓国などの外国の脅威」を重視し、その脅威に備えて軍事力を強化して自衛隊の活動範囲を拡張すべきだとする。緊急事態対処のための軍拡や人権停止、戦う愛国心教育などを認めるべきとする考え方も含まれるが、現行憲法の「個人の自由的な尊厳原理」より「民族の集合的な尊厳原理」に立脚する。
戦後レジーム転換の目論見や改憲思想の根底にあるのは、国家的・民族的な「我々意識」を仮想敵との対立図式の下に復権させようとするある種の近代国民国家(国家のための国民の奉仕)の原点へのバックラッシュである。戦後日本の個人主義や自由主義よりも、戦前の我々日本人のムラ社会的なコミュニティ主義が好きというのもある。
日本国憲法の戦後日本への影響は「安全保障+民族主義・愛国心教育+ムラ社会の結合」を「敗戦の国民の被害者意識」の下に短期間で解体した事にあった。戦前は「日本人なら戦争に喜んで協力して当然、天皇陛下のための死は名誉、戦争忌避は非国民・村八分」という民族意識が安全保障と教育・地域を経由して結合していた。
戦争によって一般国民が利益を得ることはまずないし、改憲派の人でさえ「一般人で戦争をしたい人はいないが、不本意であっても仮想敵の攻撃・侵略によって戦争に巻き込まれる恐れがあるから、緊急事態に備えなければならない」という考え方の人は多い。現行9条はそもそも論のレベルで「戦争の可能性」を潰した特殊性がある。
9条改憲反対や護憲派はそもそも論のレベルで国家に絶対に戦争ができないようにしよう(国家が国民の同意なく個人を動員・使役できないようにしよう)とする「立憲主義のプロトコール重視派」と考えることができる。改憲派の教条主義では、9条維持を「中国・北朝鮮の利敵行為」のように捉えるが、護憲派は普遍主義に近い。
つまり「一般人で戦争をしたい人はいないが、不本意であっても仮想敵の攻撃・侵略によって戦争に巻き込まれる恐れがあるから、緊急事態に?」という日本人の考え方は、中国人や北朝鮮人にも当てはまるのではないか、未来で個人の尊厳原理を普遍的なものとして拡張すべきというのが9条護憲のプロトコール重視の思想だろう。
戦前日本では、一般国民が「私は戦争に反対なので参加しません・動員や命令を受けるつもりはありません」という自己主張や選択をすることは実質的に不可能で、共同体から排除されれば生存が困難だった。それと同じような公権力主導の強制・誘導が中国人や北朝鮮人にもあるのではないかという推測はあながち的外れでもない。
戦争ができる国家体制の整備は、自分と国家・民族をどれだけ一体化させているのかによって価値判断が大きく変わってくる。「国家の自立・軍事的な独立」や「自主憲法の制定」を金科玉条とする改憲派であれば、自分と国家・民族はほぼ一体化し、個人はいわば国家・民族の維持発展の構成要素となる。
立憲主義のプロトコルでは、9条改憲派・国家主義的な価値観というのは「いざという時には国家は個人の自由や権利を停止してでも命令や戦争をできる権限を持つ」というプロトコールを採用、9条護憲派・個人主義的な価値観というのは「いざという時でも国家は個人に生死や価値に関わる命令まで強制はできない」となる。
保守主義をベースとした改憲には、根本的価値として「戦後日本は個人の自由や権利を過剰に認めすぎて、一般国民をわがままにして国家・民族の存続発展のために統制できなくしてしまった」という批判意識がある。しかし中国や北朝鮮が周回遅れの軍事挑発を仕掛けられる根本原因は、正に国民が国家に統制されているからである。
中国人や北朝鮮人が、戦後日本の日本人のように「国家・民族という集合的な尊厳原理」から離れて、「国家権力・政治権力からの一方的な命令に服従しなくても生存可能な立憲主義の保障やムラ社会の解体・消費文明の拡大」を経験した場合、中国・北朝鮮も一般国民に国家が命令できなくなるので現行憲法下の日本に近くなる。
憲法と国家と国民の図式は、立憲主義の文脈では「外国との戦争リスクに対する備え」も重要だが、それと同等に「国家権力が個人としての国民にどこまでのレベルの命令ができるか?」もある。中国や北朝鮮が軍事的緊張を起こしてしまう根本原因も、「国家が国民に命令や威圧をしやすい体制・法と教育・意識」の問題にある。
戦争と安全保障と民族意識とムラ社会を「そもそも論の原点のレベル」で理性的に考えるのか、「今あるように見える軍事危機に対処するレベル」で即応的に考えるのかの違いというのが、現在の憲法改正・9条改正の議論の本質である。人間は戦争をする社会的動物の本性を持つが、それにどう対処していくかも歴史的に問われる。
中国人も朝鮮人も、現実の日常では「日本・アメリカ」が怖いとか憎いとかよりも、中国人・朝鮮人の同胞の共同体の中で「裏切り者・非国民と指弾されて懲罰や差別されること(日本人・米国人がそこまで嫌いじゃなくても嫌いという事にしないと怒られるw)」の方が怖いのではないかという問題意識はどこの国も通じる。