○「若さの価値・魅力」は、わざわざ「オバサン・オジサンのステレオタイプな侮辱」を引き合いに出さなくても伝わる。中年期以降の人生経験の蓄積は良い方向にも悪い方向にも人間性を固め、老化に抗する清潔感も身だしなみだけで維持するのは困難になってくる。
年齢じゃない!「オバサンになる人とならない人」の違い
精神的な若さや新たに学ぼうとする姿勢、他者への想像力には「年齢じゃない面」も多いが、肉体的な若さや加齢による体・脳への影響、異性関係は「年齢で決まってしまう部分」をゼロにはできないのも現実である。人の生命・人生にはライフサイクルと老化・寿命があり、永遠に中年者・老人にならない人は誰一人いない。
「生理学的な加齢の影響・衰退や病気のリスク・見た目の変化」をベースに、「年齢相応の自己呈示・人間関係・価値観」があり「現実的に可能なことと不可能なことの区別」もある。オジサン・オバサンになるのが「悪・不幸」なら、若者も20年以内には不幸になるが、現実を受け止めた上での可能性と価値の模索が人生だろう。
精神年齢には可変性や柔軟さもあるが、生活年齢による自分の心身・立場の変化と他者の見方の変化は不可避である。「もはや子供・若者ではない時期」と「もはや壮年・中年でもない時期」の後には、必然的に若さ至上主義の快楽に逃避する現代人が憂う「老い(衰退・介護・老後経済)の問題」が死の前にやって来る。
できるだけ若々しくありたいという現代のアンチエイジング文化は、「美貌・魅力・快楽・承認・自己愛への執着」と表裏をなしているが、この記事は20代の精神や行動の老けを緩和する記事なのに、中年者を画一的な悪意あるイメージで叩く要素を前面に出しすぎだろう。若者のイメージも異性の魅力に偏っていて画一的過ぎる。
○「自分にとって都合の良い相手や交渉にだけ関わっていたい・恋愛の努力や粘りは概ね無駄」という本音を隠さない時代になった。「言い寄る権利」は「電話営業・飛び込み営業の権利」にも似ているが、はじめから選別済みが多い。
「言い寄る権利ある」仏大女優ら、過度なセクハラ告発運動に警鐘
一生懸命に自分やモノを売り込む行為は、昔は「自己プレゼン能力・セールススキル・交渉術や折衝能力」として評価されることも多かったが、恋愛・性に関しては「自分の嗜好や許容の範囲以外からの言い寄り・心変わりさせる粘る説得」は迷惑という感性が多数を占めるようになったのかも。セクハラは地位や権力の悪用もある。
言い寄るの具体的内容にもよるが、若年世代を中心に「初期の印象・嗜好・世代差」などで知り合い以上の関係(性的関係)にまで至れるかのフィルタリングが行われるようになり、初期の評価や相手の気持ちを努力・粘り・テクニックで覆そうとして性的に接近する「口説く・言い寄る」が時代錯誤になりつつある可能性もある。
「しつこく言い寄る」「しつこく営業・勧誘する」の努力・押しで相手の抵抗意志(固まった好み・選択)を折ろうとする折衝術は、現代の恋愛・性では基本的に好まれない。「1回?数回の誘いかけ」で相手に良い反応(脈)がなければ諦めるべきというか一生懸命に諦めずくるから少し受け入れようという変心の確率自体が低い。
セクハラというか、男女双方に選択権のある自由恋愛自体の歴史が浅く、「言い寄り方・断り方」に画一的ルールはない。突き詰めれば二者関係で気持ちよく結果を出して納得できるかが全てだ。セクハラは乗り気ではない相手に対して、立場・利害まで使ってあの手この手でどうにか性的な役割を引き受させようと足掻く時に起こる。
乗り気であるか、可能性があれば、自分の側が少し距離を詰めたり、恋愛・性の意図のある対話をした時に、相手側も若干距離をつめて親しげな感じを出してくるか、笑顔や誘いかけが増えたり対応が良い方向(自分が期待する方向)に変わってくる。好意を示した後、向こうから近づいてくる位でないと上手くいかない事が多い。
セクハラになってしまうケースでは、自分が相手への異性としての興味・好意を伝えると、逆に相手が距離を開けてよそよそしくなるか、重要な用事以外の無駄なおしゃべりで話しかけてこなくなってくることが多い。それだけで判断基準として十分で、女性側も好意に応えて親しくしたい相手ならそういった反応はまず取らない。
現代では、リアルの職場・学校・コミュニティでの言い寄ってどうこうしようとする恋愛や性というのは、実際に会う前の段階からある程度の好意・目的・合意が確認できるネットの出会いよりも、難しくなった部分もある。アメリカで問題になっている業界の権力者のセクハラも、旧弊な男性社会・権力流用の焼き直しに過ぎない。