○人間の脳は一般にストーカー傾向(所有・愛着)を持つらしいが、近代以前は身分や婚姻、規範で人間関係の流動性を落とし心理問題を見えづらくした。儒教の倫理規範を前提にして、君臣でも夫婦でも相手の変更を「悪」にして別れることを難しくした。
ストーカー加害者、4人に1人は自覚なし 初の心理調査 (朝日新聞デジタル、http://mixi.at/a21SLV1)
例えば、婚姻制度では人のその時々の気持ちの変化を無視し、「生涯連れ添う誓い」を立てるが、現代では相手が嫌いになって「二度と近寄らず話しかけないで」といわれれば従わなければならないが、前近代や今のイスラム世界などではいったん形成した婚姻や家族に対し「嫌いになったから近づかないで」は通用しない違いがある。
というか、昔の人は婚姻なり家族や男女なりの関係を「流動性のある関係・個人の気持ち優先の関係」とは認めず、イスラム世界でも婚約破棄や自由恋愛、不倫、離婚を「不名誉罪」として離れようとする側を罰したり殺そうとすることもある。この辺に自由な個人がいなかった近代以前の人の脳のストーカー性が反映されている。
現代においても、婚姻制度、親族関係や終身雇用には、「いったん固定された関係性は個人の気持ちや都合によって基本的に変えてはいけないというストーカー脳(ずっと同じでないとパニック傾向)」に応える要素がある。一方が納得できず物心の備えがない時、『別離・離婚・解雇』は人によっては怒りか絶望を反射的に生む。
ストーカーになる人は特別な人かといったら、前近代社会や男尊女卑の開発途上国・イスラムを見ると、『いったん構築された固定的関係を壊して絶縁しようとする時に、人間の脳がある種の動物的暴力性』を発揮しやすいのは、元々多い傾向で、昔はストーカー問題を『社会の流動性の低さ・義務や慣習』で隠せていたのだろう。
本心から無常や人権、近代的人権を理解して受け入れるならば、自分は絶対にストーカー的心理にならないとはいえるが、俺・私はストーカーなどならないと思っていても、今ある当たり前の『恋愛・結婚・雇用・家族』などが相手の気持ちや都合だけで切り捨てられたり変更された場合、ある種の怒りや絶望が起こるリスクはある。
現代社会は関係性において、個人の人格・自由・気持ちに最高の価値を認めるため、本人が嫌と思えばそれだけで絶縁できる、これはある種の気楽さと運命に縛られない可能性ではあるのだが、心の弱い人、年を取った人、市場原理に馴染めない人ほど「今ある関係や条件の一方的変更」を嫌って不満を持ちやすい。わがままと感じる。
○幸福に遠い富裕層のお金の使い方というけれど……非地位財というのはお金だけでは自由に得られない種類の関係性・健康・感性を含むので難しい。
http://blogos.com/article/273322/ 比較競争のモノ消費としての「地位財」、主観満足のコト消費としての「非地位財」として整理はできるけれど。
しかし、お金で手に入れられる「モノの価値」は誰にとっても同じで、その価値は価格によって決められるというのは幻想であるというのは同意だ。自分の性格を熟知して、性格・価値観に沿った支出をすることで主観的幸福度が増すというのは経験的にも実感される事である。
外に出るのが好きな外向的な性格なのか、家にいるのが好きな内向的な性格なのかでも「幸福な支出先」は変わるが、自分は外に出るのも家にいるのも両方好きなのであまり参考にはならない。どういった交友関係に優先してお金を使いたいかでも変わる。旅もお金のかからない自然・歴史重視の旅の方が主観満足度は高い事もある。