○現代の未婚化・少子化にも関係する「美へのこだわり・潜在的な個人優生学」がネットで語られていたが、直接に見た目の魅力を求めるとはいわなくても、現代の20代以下の若い世代を中心に「見た目を承認されたがる文化・社会風潮(反動の容姿コンプレックス)」が昭和とは比較にならないほど強まってきた。
昭和期までの女性も「見た目の評価・コンプレックス」は当然あったはずだが、「皆婚文化・非ネット社会・出会う機会の少なさ・分相応の庶民意識・都市やメディアの発展途上・見かけ重視は浅薄な悪の倫理観」が強かったので、早い時期のお見合いで結婚するなど、好き嫌いの恋愛市場原理の直接の比較を回避できた面が大きい。
みんな貧しく生活に必死だったため、昭和期までの男性も「外見を格好よく磨くメリット・周囲の評価」はあまりなく、男性社会の中心的価値観や嫉妬・やっかみもあって、現在の「ただしイケメン云々」の考え方は芽生えにくかった。美人・イケメン等は、生存に必須でないある種の快楽・娯楽で豊かな国の精神的貴族主義である。
美とは何なのかは、古代から続く哲学史・文明社会の男女の大きな課題だが、近現代に至るまで「エロスの抑圧・見かけの軽視(生活・労働力を最優先)」があったため、美学そのものも真剣には考えてこられなかった。アリストクラシーの知覚的・思索的な娯楽であり、宗教や内面の問題への置き換えに終わりやすかった。
魅力的な女性でも、あまり苦労してなさそうに見えるいつも笑顔な美人を、気に入らない(みんなが助けてくれて良い男を捕まえた職能のない美人は人生を舐めている)と思っている人が意外に多かったりする。男性もイケメンへの嫉妬がないわけでもないが、自己像を本気で肯定するのが難しい時代になったのだろう。
万人受けする型の明るく爽やかな美人は、潜在的には自分が恋愛市場や男性から見てどれくらい価値があるかを自覚しているだろうが、その自覚を(特に男には)あからさまな形で言葉や態度に表す人は少ない。他の女性と自分を比較することもまずない。表には出さないが、人生や異性の重要な選択では判断軸はしっかりしている。
容姿と合わせ年齢もあるので、人はどんなに客観的な条件が良くても、完全に「自己愛・他者比較のベクトル」における自己評価を完全に維持することは不可能である。ただ「自分の限界を受け容れる」か「誰かから強く愛される(認められた)ならそれで良いする」か「人のために生きるベクトルに変える」かでしか出口戦略はない。
しかし、人間の世界や社会における「価値判断のプライオリティー」は時代と共に移り変わってきたが、現代では「自己愛・美意識・美の鑑賞や快楽の堪能」といったかつて王侯貴族の価値観が、芸能メディア、ネット(写真投稿SNS)の影響で拡大し続けていると解釈できる。今の若年層だけに留まるかも分からない。
自分や友達、恋人などの写真をネットにアップして周囲の反応を求める文化そのものが、かなり「容姿・外見の相対比較」を意識させる文化であり、「交友範囲の多様性」を縮小して「類似性の原理(似たもの同士のコミュニティ凝集性)」を強化している。表層的文化でありつつ、水面下で進化・性淘汰とも関連する。
男と女の「美人論」の噛み合いにくさは、所有(恋愛・結婚)と美・性の堪能の違いにもある。女性は「最高レベルの唯一の美人」がいればそれでずっと満足する前提を置くが、男性は「さまざまな外見と性格・会話・性愛の多様性」の前に自制を強いられる。愛と倫理を除けば美は移ろいと多様性で流動する生命の刹那だ
男性の性選択の一つの思考実験として、「100点の美貌を持つ女性+愛想と自分への興味がない」なら、「50~80点の美貌を持つ女性+明るい笑顔と愛想、自分への興味がある」がいるとして、100点の女性はかなりの確率で選ばれない。一人の絶対的影響力は美貌よりも愛情と倫理と信義(裏切れない)において維持される。
美貌と快楽と歓待(ホスピタリティー)の相乗作用は軽視できず、それぞれに倍々の影響力をもたらす梃子の原理である。恋愛にせよ飲み屋のような商売にせよ、100点の圧倒的な美人でも敗れる可能性があるのは、70点の女性で会話と遊び・性ともてなしを極めれば、相乗作用によって合計点では抜き得るからとなる。
○18歳年齢の人口減による「2018年問題」は、大学・予備校・教育業界に一定の影響。定員割れ大学の雇用問題。2017年出生数は94万人、第二次ベビーブームから5割減。
1949年270万、1973年210万が戦後出生数ピーク http://blogos.com/article/277688/forum/
戦後復興の混乱期と皆婚時代とはいえ、1949年の約270万人の出生数は、現在の3倍近い数字で統計上も突出している。年齢別人口階層の逆三角形部分(団塊世代)を構成した。1973年の210万人以降、一貫して減少、特に平成元年(1989年)に120万人台になってから130万人台に回復した年度はない。
昭和の終焉と平成の始まりにおいて、少子化傾向が続いたというのは「バブル崩壊・失われた30年」でも説明可能なのだが、かなり象徴的なトレンド転換というより他はない。1995年のWindows発売やオウム事件なども連想されるが平成に入ってから二度と130万人台を回復できなかったのはマインドの変化も大きい。
○贅沢な生活は「承認欲求・優越欲求・世間体・女好き(男好き)」が強い人にとって快楽をもたらすが、高級品を買ったり高級ホテルに泊まること自体はそれほど楽しくない。
「贅沢な生活って何が楽しいの?」――年収1200万円、資産家の独身男性の疑問に注目集まる (http://mixi.at/a3l9ohs)
結局、お金を使って何をしたいのかということだが、「生涯賃金以上のお金があること自体」が、選択肢を持っている安心感や余裕につながるというだけだろう。極端な長時間のハードワークで高所得の場合は、お金だけあってもそれを十分使う暇がないケースもあるし家族がいれば多少高所得でも家・生活・教育に使えば余らない。
贅沢な生活や魅力的な一人の相手も、それが当たり前の日常になれば、精神をハイテンションにするわけではなく、「落差・変化」がなければお金があっても贅沢を続けていても同じ日常の刺激に収斂していくだけである。人生というのはそういうものであり、「変化・落差の楽しみ」を極度に追求すれば失うもののほうが多くなる。
巨額のお金や高級なモノや魅力的な誰か・愛情が自分を究極に救済するわけではないが、世俗の幸福追求手段ではある。最後は「自分・生命・世界との向き合い方」を深めたり広げたりすることで、見える景色や生の実感が変わってくるだけとも言える。お金・仕事・家族・異性・モノによる喜びや意味づけを得て納得・満足できるか。
何ものも持っていくことができないが、何ものも持たずには生きていけない。決定的に満足することもできないが、満足することを知らなければ苦悩は深まり、さらにと求め続ければいずれ自滅する。お金・モノにしても家族・異性にしても、「これで良いの決断・自分はこんなものだの自己限定」ができなければ大変である。
○近代の結婚は「両性の合意のみで成り立つ前提」だが皇室でなくても政財界の閨閥でも結婚は自由選択ではない。宮内庁の身体検査云々もあるが、眞子さん自身が現代っ子で家格・身分を優先する価値から距離がありそう。
眞子さま:結婚延期 20年に「準備の余裕ない」 (http://mixi.at/a3k9ao2)
皇室・皇族も宮内庁も想定していなかったカップリングで、中高年以上の世代に残る「天皇家を別格とする身分意識」が薄れていることの現れでもある。小室圭さんも、一世代上なら個人的に眞子さんと親しくなっても「天皇家の人」であるというだけで庶民・非資産家なら結婚以前に自分から無理と考えフェイドアウトしただろう。
20代半ばにとっての「二年間の時間」はかなり長く、どちらかが気変わりする可能性もゼロとは言えない(通常、皇族の色恋や婚姻に気がわり・別離はないとされてきたが)。小室さんに二年間の時間を与えることで、その期間に職業人・社会人としてどれだけ自立性を高め成長できるかを見る意味合いもあるかもだが。
眞子さんが結婚すれば皇籍を離れるとはいえ、一般庶民としてどんなに貧窮しても国家が一切助けないわけではないだろう。一時金1億5千万円も、仮にそれを使い果たしたとして、眞子さんが一般企業に派遣やバイトで働きにでる事などは想定しにくいわけで、終身セーフティーネットがあるだけに配偶者の素行は気にされる。