○「3高・3低・3優」と女性にとっての好条件はあるが、「絶対に結婚したいのか・どうしてもその相手と結婚したいか・結婚後の生活や育児が成り立つか(自分の負担割合・役割)」が前提で、出会えた人や選べる範囲で選ぶかどうか。
「3高」はもう古い? 現代女性が結婚したい「3優男子」とは(http://mixi.at/a3lWfnI)
3優のような条件が高望みか贅沢かどうかは、本人の影響力・総合的魅力とその人を選ぶ男性側の価値観次第(男女の気持ちのバランス・どちらがより相手に惚れ込むか)なので、客観的に見てそれほど魅力がなくても、一人の男が「何でもしてあげたい・自分が万難を排すから結婚してくれ」ならそれで話がつく。
結婚や男女関係では二人の間の合意さえあれば、どんな一方的な条件でも話はつくが、一時の恋愛感情や独占欲に基づく「男特有のはったり」も有り得るので、婚前の約束(何でも俺に任せておけ・財産が?ある・お金のことでは苦労させない・働いても働かなくてもどちらでも良いなど)は話半分で聞いておいたほうが良い……。
3優男性の記事で、「男に色々してもらいたい女・買ってもらいたい女」を非難する声も多かったが、現実、若い世代の女性であれしてくれこれしてくれ(買ってくれ)という女性は「商売・飲み屋」以外はまずいない。それほど好きでない男が色々してやるといっても「申し訳ない・後で面倒くさい」で断る人の方が多いと思うが。
カネの欲望は、出せる相手と場面、関係性がある。「結婚後にカネの欲深さ・相手への要求(各種の義務のある関係性を確定すれば安心して多くの要求ができると思う男女は多い)」が強まるケースの方が多い。身内・家族に対して要求が多くても、外部の人に要求が多いとは限らず、内と外で違う印象の人も多いものだ。
男性も女性も「自分のもっとも魅力的な気を遣った顔(サービス精神旺盛な側面)・相手に好かれようと思って動く姿勢」というのは、「関係ができあがっていない第三者で好意を持つ相手」に向けられることも多い。それが不倫・浮気の一因にもなる。気を遣わない楽な相手はいいのだが、行き過ぎると異性としての認識が薄れる。
長期の交際や結婚生活になると「格好いい自分・可愛らしい自分」をあえて相手にアピールしようとする人は9割方いなくなるが、「自然体の自分」でいられる気楽さの慢性化は、「育児など生活の忙しさ」が過ぎ去った後に関係性のリスクになる。枯れられない人は特にそうだろう。
30~40代の女性で不倫とか浮気とかをしている人も、特別な不満があるわけではないが、「このまま人生が静かに終わっていくことが虚しいという心理」と無縁ではないようだ。結婚制度に参加している限り相手を裏切る不倫はすべきではないが、昔と違って40代でも心身が若い人が増え、「人生後半の端境期」の葛藤は増えた。
誠実・素直でまっすぐ地道に生きられる人こそ幸いではあるが、現代人は快楽主義にせよ禁欲主義にせよ「自意識・欲望のレベル・人生設計」をこじらせると、いずれも精神的・社会的に危険なゾーンに入りやすい。男でも女でもなまじ自分の何かに自信を持っている人ほど、中年期の陥穽が静かに口を開いているから用心すべきだ。
○高齢者介護・障害者介護の仕事は、性格・価値観・ストレス耐性など「資質」が問われる。メンタルが脆弱で、優生的・積極的な安楽死の価値観があったりする人に介護職のストレスがかかると危険である。
「自分が殺したと聞いた」 無罪主張の被告の母らが証言 (http://mixi.at/a3mCpJ8、02月09日)
ある種の生命至上主義の倫理観や弱者保護の絶対的な信念みたいなものが備わってないと、介護職をまともな精神状態で勤めることが難しくなる。相模原事件の植松被告は特殊にせよ、心のどこかに人間を知能や機能で差別する心理を持っている人は少なくなく、生命重視や弱者保護の理想主義のブレーキがないと危ない。
重度知的障害や重症認知症などの介護・介助は、一時的ならともかく毎日長時間にわたってやらなければならないとなると、「生命重視・弱者保護・博愛主義(分け隔てない尊厳の承認)」のような理念・理想がなければ、虐待的・事務的な対応に変貌しやすい。知性・人格による相互応答性がないと相手の尊厳を見失いやすい。
排泄の世話でも、知能と人格が維持されていて、「毎日お世話になります。いつもありがとう」などの言葉があるだけで、人はその相手の尊厳に配慮しやすい。だが言語的意思疎通や正常な理性・感情が見えない相手の場合、同じ世話でも次第に前向きにその人のためにという気持ち、自分と同じ尊厳を持つとの意識が削がれやすい。
○褒める教育は「褒めて終わり」ではなく「褒めながら次の課題・改善をさりげなく示す(もっと上達可能)」が重要である。 — 仕事、子育てのイライラを手放す! 他人をほめるだけで「自分のストレス」が減る。
『「ほめちぎる教習所」のやる気の育て方』著者:加藤光一×監修:坪田信貴対談<その3> (http://mixi.at/a3jLKiv)
褒める教育や指導に対する誤解として、「褒めたら調子に乗る・向上心がなくなる」というのがあるが、褒める効果的な教育は「褒めながら良い部分ともう少しこうしたら良くなる部分のフィードバックをする教育」であって、「現状維持で全部OKという教育」では当然ない。褒める教え方は「弛緩・放任・現状維持」ではない。
褒める教育と叱る教育の二元論でもないのだが、「相手が一生懸命にやった成果」に対して、教える側が「良い部分・悪い部分・視点(考え方)の転換をフィードバック」し「生徒の動機づけ」ができているかが重要だ。フィードバックする時に仁王像のように怒って罵倒していたら、精神が萎縮し内容が二の次になる恐れがある。
○歌・小説にせよ芸術にせよ、誰から見ても文句のないポリティカル・コレクトネス(ザ・正論)のために創作しているわけではないと思うが。 — 「あたし、おかあさんだから」の歌詞、母親の自己犠牲を美化し過ぎと炎上 作詞者は「ママおつかれさまの応援歌」と釈明 (http://mixi.at/a3jrzgo)
「あたし、おかあさんだから」は子供優先の母親像を持ちたい人にとっての歌だが、「失ったものはたくさんあるけど、やっぱり子供を産んで良かった(結婚して良かった・この仕事して良かった)」みたいな言い方自体は極めてありふれたものだ。人は「自分の選択の自己肯定=これで良かったんだ」で生きている部分が結構ある。
平均的な精神神経の持ち主にとって、「今までの自分の人生や選択のすべてが無意味だった・嫌々やらされてきて不幸なだけだった」と思うのは、やっぱりつらいもので抑うつ的になりやすい。就職にしろ結婚・子供・老後にしろ、「重要な選択でしくじった」とは思いたくないのが人情、やせ我慢でもこれで良かったで行きたいと思うものなのである。