優生保護法に基づく強制不妊手術の背後にある現代的感覚、マスメディアの政治的公平の問題、農業支援アイドルの16歳女性の自殺など

○現代では自発的な優生思想や性選択が内在化されややすく表面化しないが、知能や責任、虐待、犯罪で「子供を持つ資格がない・親になるべきでない」の発想は根深く、出生前診断・自己客観評価も増大した。

強制不妊手術:拒否した親に「無知と盲愛」 侮蔑の言葉 (http://mixi.at/a5cZBF5)

強制不妊手術は人権侵害だが、戦前戦後の日本は貧しく幕末まで健康な赤子でも口減らしされ身売りさせ労働力にならない家族を食わせることが難しかった時代状況も合わせて考える必要はある。現代でも「働かない人への非難・否定」は根強く、人によっては人権を認めないレベルだが過去にも労働可能性が優生判断の一つだった。

人間の優生思想の淵源は、ダーウィニズム的な「自然選択・性選択」であるが、近代以降は男女が対になれば子供が産まれる生殖必然の運命を、避妊技術・知性・恋愛文化や美意識によって、より「意識的な選択性」に傾けた。優生保護法は権力の強制の人権侵害だが、現代は自発的・個人的な無意識下の優生の価値判断は強い。

○精神の落ち込みの制御でアルコールや薬物に頼る人も出てくるが、僕は自分である種のトリガーを引いてフロー(ゾーン)に入った時に襲ってくる強烈なナチュラルハイに身体機能が追いつかなくなって逆にきつい。「酒・タバコ・薬物」などの中枢神経の刺激・麻痺を用いずとも、内面から滾滾と意欲・興奮は自然に湧いてくる。

10代の頃からフローな「怒涛の勢いに乗る感覚」があり、ハイテンションとバイタリティー強化はあるが、30代後半から長時間の仕事やハイな運動・成功・異性・読書の後に身体が疲れやすくなった。昔、精神医学的な躁(manic)かと思ったが、精神運動のアップダウンがないので意図的な瞑想・運動・休養が要る。

しかし、あまりに爽快で嬉しい面白いとか、興奮してやるぞという気力が湧くとかいう状態は、相対的には幸福な状態かもしれないが、年齢相応の脳にとってかなりの負荷がかかっており、ハイに自律神経系が興奮し続けたり運動し続けると、中長期的には睡眠不足も含め中枢神経・循環器などにダメージが及ぶ可能性がある。

○現代のマスメディアの政治的公平性の定義は確立していないが、「(人権軽視の)戦前社会の否定・政治権力牽制・人権尊重・一極集中回避」は概ね共通か。メディアの反日性云々も一極集中回避と関わる。

放送法の「政治的公平」撤廃を検討 政府、新規参入促す (http://mixi.at/a5eBciV)

戦前は、「日本国民であれば絶対に~しなければならない・~でなければ非国民である」という戦争協力・滅私奉公(お国のため)を前提とした共通規範を植え付ける目的がマスメディアに期待され、新聞・テレビで政治方針に逆らえば検閲による処罰・営業停止で、合法的に出版・放送するにはプロパガンダせざるを得なかった。

敗戦後は国家主義(ナショナリズム)・滅私奉公・一億玉砕などを全否定する形で、マスメディアの普遍的前提は「個人主義・自由主義(国家であっても国民の人権を制限することは極力あってはならない)」に180度転換して、それまでのプロパガンダと反対の方向(GHQ指導忖度含め)になった。国家を戦争機械と見るか否か。

戦前メディアはカリカチュア化すれば「自分個人よりも国家・天皇のことのほうが大切、一旦緩急あらば惜しまず生命も捧げましょう」の方向性で国民を統制しようとしたが、戦後メディアは反対に「国家・社会よりも究極には個人の方が大切、国家でも身体の自由や生命を奪うことは許されない」に変わったということ。

○農業支援アイドルの16歳女性が自殺したニュース。客観的には中高年・老人の自殺者の数が圧倒的に多いのだが、10代で平均以上の能力・魅力を持っていると想定される人の自殺は残念で、これからどうとでもなり楽しい事も多くあるのに。と考えていたら、これもある種の優生思想・年齢差別で人の命の平等視も難しいものだ。

親族と友人が、事務所の裏切りが原因で自殺で死んだことを拡散してくれとTwitterでリツイートしているが、社長のパワハラかセクハラかなのだろうか。しかしアイドル稼業・芸能人に憧れる若い女性は多いが、女優として一本立ちできるくらいのキャリアを積むまでは心理的負荷は大きいし、対人トラブルも多い業界だ。

見た目の魅力を売るというのは、成功したアイドルや芸能人だけを見れば「ローリスク・ハイリターン」に見える。芸能界やモデル界の華やかな世界・魅力的な人の多い人脈に惹かれるのもあるが、それだけ「日常生活の延長線上にある普通のバイト・学校・恋愛や結婚」が胸をときめかせられるものではなくなったのかも。

人並み以上に美人とか可愛いとかいう自覚のある人は、「特別にハッピーな人生の展開」を期待しないといえば嘘になるのだろう。普通に学校やバイトをしていても多少ちやほやされる等はあっても「それなりの人生の経路」しかないように見える。本当はそれなり・普通の維持も大変と後で気づくが若い時は面白くないと感じる。

○認知症でも軽度から重度までスペクトラムがあり、軽度は常に知的能力や自己認識が低下しているわけでもないので「尊厳に配慮した概念」も必要になる。徘徊以外の適切な熟語がないので回りくどくはなる。

「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き (http://mixi.at/a5en6CK)

「普通・健康ではない状態(自立不能な状態)」かつ「不可逆的な能力低下」を何と呼ぶべきかは、人権や尊厳、平等に配慮する現代ではセンシティブな問題になりやすい。昔のように痴呆・知恵遅れ・馬鹿アホ・片輪と蔑んで差別する時代が良かったと言えない以上、倫理観の進歩として受け容れるしかないコストになりつつある。

ただ差別してはいけない平等主義が行き過ぎると、認知症の徘徊をただの外出と表現してしまうのと同じように、「健常・普通な手助けの要らない状態にある人(放っておいてもOKな人)」なのか「病気・障害のある福祉や手助けの必要な状態にある人(誰か保護が要る人)」なのかの区別が言葉だけではつかなくなる恐れがある。

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