現実の社会や人間関係に生きようとする時、誰もが自己と他者の意思であるとか利害であるとかが対立するように感じ、自分と他人との自意識や生活のせめぎ合い(折り合えない感覚)を意識するような『俗物』であることを免れない。
私が『俗物』である時、その幸福の要件は物理的・経済的な豊かさ、あるいは他者(社会)からの承認・評価などに委ねざるを得ず、それらを手に入れるための『欲望・情動』によって激しく興奮したりがっかり落胆してしまったりもする。
俗は成功と失敗、勝利と敗北、優越と劣等、善行と罪悪などの分かりやすい『自己と他者との差異』に執着することでもあるから、俗物になっている時にはエネルギッシュではあるが常に気持ちの平静と縁遠くなりやすい。他者との協力や対立の心理に拘泥することで、『思い通りにならない他者・集団力学』に対して冷静な気持ちでいづらくなったり、何とか良い結果を得ようとして自分の能力・努力の限界まで突っ走って燃え尽きてしまうこともある。
近頃続発した『土下座による謝罪の要求』なども、自己の意思や存在の優越を他者の意思や存在の屈服によって確認しないと安心(納得)できないという俗な心情の発露かもしれない。一見、土下座させる側が傲慢(優位)に見えても、『土下座する側の反応への依存性』という精神的な弱さが推測される。
その裏返しにあるのは『自分が他者に屈服させられたりバカにされるのかもしれないという不安感・不信感(他者の内面を想像する一人相撲を取り続けて一喜一憂を繰り返す)』であり、他人が本心では自分の価値など認めていないことが薄々分かっているからこそ、『分かりやすい行動の外見』でもっと謝罪や尊敬の意思を表現しろと必死になってしまう。
『本心からの尊敬・関心・好意』が欲しいが、『自分の人格・内面へのまなざしがない俗性』があまりに強すぎてしまい、本当に欲しいそういった他者からのポジティブな承認をまっとうな経路や方法では求めることが不可能になり、(真面目にやってもどうせ認めてくれないなら相手を困らせてやれというような)余計に意地悪で威圧的なパーソナリティに傾いていくのである。
俗の原理は『社会における財と名誉の配分』や『人間関係における愛情と尊敬の承認』によって支えられているが、これらは分析心理学のC.G.ユングがいう『外向性の性格構造』に対応したものである。俗の原理ばかりで人生を生きると『自分の人格・内面・価値判断』に意識が向かわなくなり、『分かりやすい快感・目に見える事柄・他人が自分をどう扱うか』によってしか自分の存在意義を実感できなくなる。
そのため、ユングは『外向性(俗・物質世界)』と『内向性(聖・精神世界)』のバランスを取る概念として、“エナンティオドロミア(揺り戻し・変容)”という古代ギリシアのヘラクレイトスに由来する奇妙な概念を提起した。
外向性というのはいわば『行動・適応によって何らかの結果を出したいという原理』であり、内向性というのはいわば『思索・想像によって自分にとって通用する価値基準を創出したいという原理』であるが、外向性による俗の原理は『他者の反応・社会との関わりによる成否』を必要とするため、コストが高いのと同時に他者との衝突や優劣の意識に囚われやすい。
内向性による聖の原理は、宗教や哲学、理性、信念、想像力、知的好奇心などと相関するもので、観念主義による世界観や価値観の創出(自分の頭の中の思索によって世界の原理や他者の存在を解釈する営為)でもあるから、『自分ひとりでも自足・完結できる原理』という意味で、必ずしも他者や社会との密接な関わり合いを必要としない。
近代から現代へと続く資本主義社会は、経済社会(企業経済)に参加して行動することに重きを置く『外向性の時代』を生み出したが、外向性による価値観だけが過剰になり『社会・他人との関わり合いによる自己評価(自他の比較によってのみ形成される自尊心や喜び)』に固執する人が増えすぎたことによって、『内向性の思索・価値観(自分自身の興味関心に基づく本質・原理の探求=拘束されない精神の自由感覚)』によって形成される平静な心理状態から遠くなりやすくなった。
“俗(欲)”と“聖(知)”の二元構造における転換原理としてエナンティオドロミアはあるが、『他者・社会が気になりすぎる俗の偏り』あるいは『他者・社会から遠ざかりすぎる聖の偏り』に陥って心のバランスが崩れた時にこそ、『今・ここにある囚われた心理状態からの変容(揺り戻し)』を心のどこかで意識しておきたいと思う。
他者や社会(経済)との関わり方に囚われ過ぎて不安定になる、自意識や信念体系(思い込み)にこだわり過ぎて不適応になる、誰もが自分の現状肯定のため、ストレス回避のためにいつハマり込んでもおかしくない過剰性ではある。人生や人間関係が上手くいかないと感じた時に、『自分の信じてきた原理とは逆の原理』にちょっと意識を振り替えてみるのも良いかもしれない。