嫡出子と非嫡出子の相続比率に格差を認める民法の規定は違憲であるとの最高裁の判断が示されたことで、本来伝統的な家族形態や法律婚の規範性を支持していた自民党の保守派も、民法改正に着手せざるを得なくなった。
『法律婚の事実婚に対する各種の優位性』をどこまでフラット化すべきかは、特に『配偶者扶養・税制や控除・財産権や相続権』などにおいて今後の婚姻率低下の要因とも絡む大きな問題になるが、『生まれてくる子の自らの行為に拠らない不利益・不平等』になる法的な強制は難しくなる方向性にあるのだろう。
人はなぜ結婚するのかの理由は、近代的な恋愛イデオロギー以前から貴族階級を中心とした婚姻制度があったように、ただお互いが好きだから結婚するというよりも先に、婚姻には『生活の維持と子の育児に対する強制的な協力義務』と『家系の地位と財産の継承者の明確化(法的な配偶者以外の他の異性との競合の排除)』の意味合いが強くあった。
近代以前には、生活環境の厳しさや不便さから結婚しない人は殆どおらず、また社会通念の強さから子供を持たない結婚というのも例外的なものだったが、基本的には婚姻は幸福追求や好みの相手の選択というよりかは、みんなと違うライフサイクルを選びにくくする相互監視の影響力も含め、既存社会の拡大志向の再生産(人口・労働力・類似の価値観を持つ人の増加)が期待できる制度として自明化していった。
本人の好き嫌いの気持ちだけに任せていたら、長年相手のために献身的に尽くしてきたとしても、途中のどこかで突然の気変わりや気まぐれで裏切られたり、何の財産配分(養育費・慰謝料など)も得られなかったりというリスクもある。婚姻は『男と女の関係』を法律的に固定して(後から来た他の異性との競合を法的に排除でき)、社会的に夫婦だと共同認識してもらうこと(それ以外の異性との交際は不倫だと指弾してもらうこと)で、過去からの関係・信頼の積み重ねを理不尽に崩される変化(気変わり)のリスクをヘッジする役割を果たしてきた。
しかし現代の人間関係の多様性や性的アイデンティティの個別性は複雑化を増す一方で、『男と女の関係を法律的に固定する婚姻』というかつての常識に類する観念そのものが、法改正と意識の変化によって公的にも通用しないケースがでてきている。
無論、個人的・世間的な差別や偏見は根強いものがあり、一部のトランスジェンダーや同性愛を明らかにして活動する芸能人も『普通ではないことを売りにしている色物』として見られている状況はそれほど変わってはいないだろう。同性婚が認められているアメリカの一部の州においても、同性愛差別やトランスジェンダーの侮辱は深刻なものがあるという。
ホモ・フォビア(同性愛恐怖)である男性同士が固まって、自分が異性愛者であることを排他的な姿勢で過剰に喧伝する『ホモ・ソーシャル』の問題もある。ホモ・ソーシャルでは、女性を支配対象と見るミソジニーによる男らしさの誇示、同性愛を激しく叩く武勇伝で自分が同性愛者ではないことの強調が盛んに行われている。
イヴ・セジウィックのいうホモ・ソーシャルは『精神的・社会的な男社会のつながり(性的ではないことを強調する男同士の擬似同性愛的な結びつきの強さ)』でもあり、『精神的な親密さのホモソーシャル』が『性的な親密さのホモセクシャル』とは全く違うのだと必死に弁解するかのように(その現れとして女遊び・女性蔑視・下ネタなどを男同士で共有して彼ら流の男らしさを示す)、同性愛嫌悪(ミソジニーも含む)がヒートアップしやすい。
ホモ・ソーシャルの問題は、男同士で群れることが好きな男たちが、自分たちは別に男が好きなわけではない(惚れるだけの魅力的な女がいない・女の本当の性格はみんな悪いなど)というエクスキューズの意図を外部に向けて訴え始める時に、女性・同性愛者に対する排他的な言動となって表面化する。
近年では、女同士で群れることが好きな女たちが、好きになるろくな男がいないとか、自分たちはあのダメな女たちとは違うとかいった自己アピールをはじめるようなケースにも、ホモ・ソーシャル概念が用いられるようになっていて男性集団を指す意味合いは薄れているが、女性集団の場合には同性愛嫌悪は男ほど強くない傾向が顕著である。