かつては性的マイノリティやレアケースには、政府・法律は何らの保障・承認を与えないまま、『みんなと異なるセクシャリティやライフスタイルは個別の自助努力の範疇で生活改善・差別軽減を図るべきだ(そうでなければマジョリティが構成する社会秩序や風紀に悪影響をもたらすし少数であれば放置しても全体は困らない)』という態度で知らぬ存ぜぬを決め込んできた。
だが、性的マイノリティに対する理解の増加、婚姻できない(親として法に認められない)本人による違憲判断を求める訴訟の続発によって、政府も無視を続けることは困難となった。
“婚姻・家族・親子”と“法律”の関係:憲法原則1:同性婚・生殖医療からの視点
家族や親子、人間関係(男女関係)の多様化に対して、政府や法律が後追いしながら追認・許可するような形がずっと続いており、2004年にも『性同一性障害特例法』の制定によって同性愛者でも法律上の婚姻ができるということが保障された。この当時においては、生物学的な男性と男性、女性と女性が結婚するのだから、美容整形手術やホルモン治療、性転換手術によって外見は違う性に見えるようになっていても、子供はできないという無条件の前提が置かれていた。
同性愛者であれば子供が欲しくても養子を貰う他はないという臆断がそこにあったわけだが、実際には『生殖医療技術の進歩・普及』が不妊症で悩む夫婦だけではなく、二人の間では子を作れない『生物学的性差が同じ夫婦』にも子をもたらす事態が生まれてきた。
厳密には、『同性愛者の夫婦』ではなく『生物学的性差が同じ夫婦』だと書くべきなのでそうしたが、これは本人の性自認・性志向としては『異性愛者(性転換した元女性の男性であれば女性ではなく男性の自意識で相手の女性を見ているため性的な同性愛者ではない)』であることのほうが多いからである。
厳密には、二人の卵子(精子)を用いるのでは子供は作れないので、どちらかの卵子(精子)を用いて別の提供者からの精子(卵子)と人工授精させて妊娠出産するわけだが、婚姻制度と子供の福祉を規定する民法は『遺伝上の血縁関係』よりも『法律上の夫婦関係』を優先して、親と子の関係性を定めるのだと明記してある。民法772条1項に、『妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する』とある。
たとえ、妻が不倫相手の子供を妊娠したことが明らかであっても、父親のいない子供や扶養上の不利益を暫時的であれ避けるため(実際は不倫での妊娠や長期別居などが明らかであれば嫡出否認の訴えで夫側が自分の子としての戸籍記載を削除することができる)、婚姻中の妊娠は法律的には『現在の配偶者の子』と見なされる。
民法制定時には、遺伝子検査による親子関係の確認方法がなかったため、『遺伝的な血縁関係の有無』は重要視されていないのだが、司法の一審・二審は『生物学的に血縁関係がないことは明らかなので父親として記載することはできない』として訴えを退けた。しかし、最高裁は結婚を法律で認めている以上、親子関係についても民法の規定通りに解釈しなければならないとして、同性の夫婦であっても(生物学的には女性だった夫であっても)父親になれるという判決を出した。
不妊治療として別の人の精子・卵子の提供を受けたり代理母の支援を受けたりした男女の夫婦であれば、妊娠プロセスから血縁関係がないことが明らかであっても、戸籍に自分の子(父親・母親)として記載することができるので、仮に同性の夫婦だけが記載できないのだとしたら『血縁関係の有無』ではなく『同性の夫婦であること(あるいは父親は生物学的な男でなければならない)』が原因ということに論理的にはなってしまう。
その原因での記載拒否は、2004年時の立法趣旨と矛盾することから法律的には記載拒否を貫くことは難しいとは言えるが、『生殖医療・同性婚(トランスジェンダー)』の要因が考えられていなかった時期に作られた民法の解釈だけでは難しいケースが今後も増えてくるだろう。
最高裁判決が示唆するように、『法律の解釈』を超えた『立法府での議論と子供の福祉に基づいた新たな法律制定』が必要になってくるが、例えば、『女性と女性の同性婚の夫婦の子』と『男性と男性の同性婚の夫婦の子』では社会一般の受け止め方や実際に予測される育児態様もかなり異なってくるのは確実である。
それがジェンダー差別や伝統的な常識感覚によるものだとしても、法律が『多様化する家族・結婚・意識・親子』に十全に対応することは現状でもかなり難しい。
近未来に倫理学的タブーを打ち破って(何らかの既成事実が先に作られて)、母胎を伴わない人工子宮や他の配偶子(精子・卵子)を要しないクローン技術などが加わってくれば、婚姻・親子関係の事態に対する規範的・習慣的な価値判断は大きな分裂・分断(信念対立のシスマ)を引き起こすことになる可能性もある。