靖国神社には、戦争指導者・軍の幕僚として徴兵をしたり従軍の命令を出した者、召集令状(赤紙)で徴兵された者の双方が祀られているという矛盾もあるが、これは『国家のために死ぬ国民教育・価値観の誘導・同調圧力の形成』をしておきながら、国体のために戦死した人を肯定的に顕彰し続けるというマッチポンプの構造もある。
安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。
つまり、靖国神社の英霊崇拝の歴史的な仕組みの問題は、これから戦争で死ぬ国民を無くそうとする平和主義(不戦の意志)の目的で建立されたのではなく、むしろ戦争で死ぬ国民がこれからも持続的に生み出される(国体や天皇のために命を捧げるような忠義の国民を育成して生存よりも戦死の価値を強調する)ことが前提になっていたことにあるように思える。
靖国神社の宗教道徳的な働きには『戦没者の慰霊・鎮魂』と『国民の戦意発揚・滅私奉公』の二つの側面があるが、空爆・沖縄戦などで戦争の巻き添えになった一般庶民の死までは慰霊していないのであり、国民の命の犠牲・貢献を一般的に慰安する施設ではない。
戦時中の右翼思想(皇国史観)の最大の唱道者で、近衛文麿・東条英機のみならず昭和天皇に歴史講義までした東大教授の平泉澄(ひらいずみきよし)は、天皇絶対主義の『平泉史学』で当時の日本人の好戦的なマインドと空気を支配した人物として知られる。国家社会主義とも親和した右翼思想家の北一輝・大川周明よりも、天皇中心の国体の至高性を強く主張している点で平泉澄の歴史学やその講義・著作は特殊なものであった。
しかし、一般的な知名度は皆無に等しく、もしかしたら安倍首相や閣僚たちも平泉史学が靖国神社の歴史観の根底にあることを知らない可能性もあり、野党や識者は靖国神社参拝を問題視するのであれば、国のために潔く死ぬこと(楠木正成・北畠親房・吉田松陰の死にざまを理想としてそれに共鳴する忠義な死)を国民の道徳の極致とした『平泉史学』と『靖国神社の戦没者の神格化』の相関などについて質問をすべきだろう。
平泉こそは『神皇正統記』を引用して『大日本は神国なり』と宣言した上で、『あぁ、一朝有事の日には一命を陛下に捧げ奉って、桜花のように潔く散るをよしとする、これぞ西欧列強になき大日本国の強みなり』という日本精神の道徳を普及させようとした歴史学会の重鎮でもあった。
平泉澄は天皇のための忠義の死を賞賛した漢学者・根本通明の思想を解釈して、『我が国は万世一系の天皇をいただき、千古革命を見ざる国である。それ故に君臣の分、極めて明瞭であり、君臣の道徳、もっとも純粋である。外国の如きは、昨日までの臣下、俄に勢力を得て、今日は帝位に上がり、傲然として号令を下すのであるから、国民のすべてが喜んで生命を捧げるということは困難だが、これに反して、我が国に於いては、大詔一たび下れば、万民踊躍して難に赴き、一命を捧げて皇恩に報い奉ろうとするのである。日本人はすべてこの精神である。それ故に、皇軍の向かふところ粉砕せられないものはない。ああ、天兵に敵なし。皇軍必勝の理は、根本先生の此の言、道破して明瞭ではないか』と書いたが、靖国神社の国家観・道徳心はこの平泉の説いたような天皇への絶対的忠誠心という当時の道徳の極地(身分制に基づく主君と臣下の別)を抜きにしては、本来は考えることのできない問題でもある。
靖国神社で祭祀されること、参詣することは、『日本人はすべてこの精神であるの了承』でもあるから、靖国神社参拝は日中韓における外交問題であるだけではなく、『靖国神社参拝に否定的・無関心なものは日本人としての普遍的精神を持たない』という同調圧力や踏絵になりやすいという状況もある。
平泉は日米開戦を皇国護持の聖戦と位置づけて、『かへりみる去年の12月8日、われら一億の日本人の一生涯の感激の日、その日我々は太平洋の暗雲を一掃して皇国を護持し、宸襟を安んじ奉ろうとする念願に燃えたのであります。いはば、彼の日において日本は、一億の楠木正成を持ったのであります。しかしてそれ以来一年の間、ハワイに、マライに、その他各地に奮戦したる勇士は、皆楠公の像をその胸に描いて進んだのでありました。今再び巡り来る12月8日を迎えて我々は各自の胸に宿る楠公純忠の魂をしっかり守って、いよいよ奉公の誠を尽くそうでありませんか』と決死の戦闘と玉砕覚悟の不退転を煽り、『人間魚雷回天』の発案者である黒木博司少佐に影響を与えたりもした。
玉音放送のレコードを奪って終戦を阻止しようとする『宮城事件』を引き起こしたのも、平泉澄の熱狂的な門下生の軍人一派であった。
しかし驚くべきことに、あれほど天皇陛下のために全国民は生命を惜しまずに玉砕・奉公せよと激しい筆致・口調で教導した平泉澄教授本人は、宮城事件のクーデターに参加して欲しいという弟子たちの要請を『陛下が和平を望んでおられるから』といって拒否、平泉はポツダム宣言受諾後間もなく故郷に帰って実家の裕福な白山神社の宮司に収まり、何の戦争責任も追及されることなく晩年は昭和59年(89歳)まで安逸に生き延びたのである。
特攻隊創設者の大西瀧治郎や徹底抗戦の一億玉砕を主張していた阿南惟幾陸相は、自らの責任と謝罪の念から敗戦後すぐに自害しているのと比べると(無論、自害すれば問題が清算されるわけではないにせよ)、大西・阿南以上に『国民の戦争ムードの醸成』を煽った平泉の責任感の無さは驚くべきものがある。
遂に平泉本人の口から、特攻・玉砕に追いやった若者たちに対する謝罪の言葉はなかったし、極端な勇ましい精神主義で日本を敗戦に導いた扇動者としての自覚もなく、戦後は天皇陛下に対する忠義心の実践などをすることもなかった。
A級戦犯の靖国合祀の問題を考える時には、こういった直接・間接の戦争指導者やアジテーター、教育者の戦争責任の曖昧さについても考えるべきではある。また、(アメリカの戦後統治・CIAの諜報活動に協力することを条件に出されたとされるが)戦犯から首相に復帰した安倍首相の祖父・岸信介元首相をはじめとして『戦前の権力者(国体主義者)の構造・人脈・資本(潜在的な支配階層の世襲・閨閥)』が現代に至るまでその価値観と共に継承され続けていることにも自覚的である必要があるかもしれない。