が『内田樹&名越康文の辺境ラジオ』というラジオ番組で語られたらしいが、芸能・スポーツをはじめとする大衆文化というのは歴史的にも心情的にも『反知性主義・反学歴主義』であるのが普通である。
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国民総員が知性・教養・文化主義(分かりやすい物理的・性的な価値の否定と非職業的な文化教養への耽溺)に傾けば、おそらく産業経済の生産力・雇用は維持しづらくなるし、『難解なロジックや意味づけ、専門的訓練が不要な直感的かつ本能的な魅力』は人間の社会再生産や労働意欲にとってはむしろプラスに作用することも多いかもしれない。
端的には、学校・官庁・企業の積み上げ型のキャリアが形成する『学力・勤勉・職能職歴・人脈などをプラス要素とするピラミッド型の階層構造』とは異なるフレームワークを作り出すのが、近代以降の芸能・スポーツの領域の役割である。
歴史哲学的に言えば、芸能・スポーツは『中心に対する周縁の価値体系』を構築することで、社会構成員の大多数を占める『大衆層の夢・娯楽・憧れ』を作り出す。華やかさや面白み、魅力に乏しく見える政治経済エリートのカウンターカルチャーとして、芸能・スポーツは『現代のサーカス』として喝采されると同時に、政治経済システム中枢の動向に対して国民の無関心を強めるバリアにもなる。
それらは、マーケティング・宣伝戦略を典型として経済活動の促進にも当然応用されるのだが、芸能・スポーツの一線級のタレント(選手)は、誰もが心のどこかに持つ『文明化・管理化・家畜化されたくないという人間の本能(=身体性・生物学的感受性)』にダイレクトに作用することで支持・人気を集める力(カリスマ性)を持つ。
一流のスポーツ選手に見られる鍛え抜かれた肉体と高い運動能力、勝利に向かう執念というのは、どちらかといえば原始的・闘争的であり、近代以前には『戦闘能力の高さの指標=戦士性・貴族性の肉体指標』でもあり、理屈や倫理を超えて鍛錬された強力な肉体や高い運動能力は『生物としての人間の優秀性・怠惰を排すストイックな魅力』をイメージさせやすい。
古代ギリシアでは、理想的な男性像のすべてが筋骨隆々として均整の取れたアポロン像を基準として彫琢されているが、それは貴族が戦士として自弁武装(自己鍛錬含む)する『戦争共同体』であったポリスにとって本能的な男性の理想像でもあった。
繁栄と生殖を象徴するビーナス像も、古代において分かりやすい理想の女性像の典型を為したが、『現代の芸能・スポーツのアイドル性』というのも、現代において分かりやすい性的魅力や視覚的快感(=社会・メディアに要請され造形された形態のある好ましい人間観念の象徴)である。
内田樹と名越康文が日本を衰退させる『ヤンキー文化』として憂慮するAKB48的・EXILE的な文化とは、確かに『コツコツ地道な勉強や職能の積み上げをしなくても成功できる可能性』を示唆するものであり、『学力・職業・所得の二極化』を間接的にバックアップする価値形成に影響するかもしれない。
だが、『経済・職能・学力の二極化の根本要因』は市場原理とグローバル経済の進展、金融経済の拡大であり、芸能・スポーツが人気があるか否かとはあまり関係しないし、『芸能人・スポーツ選手・芸術家などとして成功するための要因・努力』がそれ以外の職業分野に比較して楽で簡単だとは言えない。
古代ローマの市民がコロッセウムの剣闘士と野獣の戦いに熱狂したように、昭和の白黒テレビ時代の日本だって野球・プロレスのスポーツに国民総出で熱狂したり、紅白歌合戦を大多数の家庭で見て盛り上がっていたりしたのであり、『芸能・スポーツの周縁社会の盛り上がりやファンの熱狂』を現代に特有の学力・職業能力を低下させるヤンキー文化要因だなどとはとても限定できない。
昭和30年代には、ヤクザ文化・任侠道・アウトローの仁義(実力行使の仇討ち)を賞賛するヤクザ映画が全盛し、映画館の外でガニ股で肩で風を切るにわかチンピラを量産したり、昭和50~60年代にも、ビーバップハイスクールやバッドボーイズ、湘南爆走族などのヤンキー漫画がブームとなって、剃り込み頭に短ラン・ボンタンの改造制服を着て他校の生徒にいちゃもんや恐喝を仕掛けるような不良が跋扈したりもしたのである。
現代と比較して過去のほうが『知性教養主義・文化主義』に近かったというのは、一部の学歴エリート階層(全共闘のような反体制運動に参加した理論武装した学生も基本的に一般庶民ではなく進学率3割未満の大学に行けるような読書人層・インテリ層である)に限った話であり、一般国民が今以上に毎日勉強をして教養趣味の読書をして、基礎学力・文化活動の向上に専念していたなどというのは事実に基づかない虚構であり、読書率からして現代のほうが昭和中期以前よりも高い。
近代の文明社会で生きている人間は、教育と倫理、世論、現実条件などによって、『肉体性・暴力・本能・性欲・本音』などを抑圧されており、芸能やスポーツの世界はそういった『文明社会の抑圧のない世界や好み、闘争の幻想・理屈抜きで身体性や本能性の魅力を本音で賞賛できる環境・小賢しい制度や知識を忘れられる楽しみ』を刺激して仮想体験を提供することで大衆の支持や経済効果を生み出し続ける。
無論、『スポーツ・芸能の分野』で成功できる確率は、普通に勉強をして就職しそれなりに専門家や労働者として成功(安定)する確率よりも圧倒的に低く、得られる報酬も一般的な仕事と比較して破格であるが、これらの分野への憧れ・熱狂・消費というのは、『学校・会社・官庁・経済などに管理計画された社会や人生(特別や興奮の乏しい日常の繰り返し)の外部』に意識を開くとっかかりになってくれるところにある。
大多数の人は失敗しない安定を現実的に望んだ生き方をせざるを得ないし、大きなリスクを伴う冒険や挑戦には年齢と共に手を出しにくくもなる。
しかし、当たり前の日常の繰り返しや現実に適応する地道な営みだけで時間が過ぎていくことには耐え切れない(耐え切れないが大きな変化や冒険には尻込みしてしまうしどうせ自分ではそこまでできないという壁も感じる)という『自然・本能のざわめき』も内部にあり、そういったざわめきを簡単かつ知覚的に鎮めてくれる社会システムとして、芸能・スポーツといった現代のサーカスは巧妙に機能していると言えるかもしれない。
アメリカにおいてハリウッド俳優の世界はすべての階層に開かれたアメリカンドリームの象徴だが、それと並んでアメリカのバスケットボール、EU・南米のサッカーというのは、スラムの最貧困層からセレブ層に瞬間移動する最も強力かつミラクルな階層移動の手段でもある。
『学力・学歴・職歴による階層移動』と『スポーツ・芸能・芸術による階層移動』の難易度の高低は簡単に比較できないが、『学力・学歴・職歴による階層移動』は先進国においては流動性が乏しくなって職業の世襲率(学歴・知的好奇心の親子相関=お金以外の家庭の教育的文化的な雰囲気などの社会文化資本の影響)が高まるなど『階層固定化の兆し』が強まっているとされる。
結果、学校教育の早い段階で、学力・社会適応を高めてテストや内申で勝ち負けを競い合う競争の場からドロップアウトしてしまう生徒が増え、そのことが中学校以上の世代での学力・努力・知的好奇心の二極化に拍車を掛けているのだともいう。
教養主義も知性主義もある一定の閾値を超えれば、『無理にする勉強の努力・義務』などではなく『止められてもやめられない最高の文化的・対話的な趣味,自己認識や世界理解の視点の拡張』になる。だが、そこまで行き着くには本人のリベラルアーツ適性やテキスト文化の好き嫌い、社会文化資本の影響、周囲にいる人たちとの相互作用などが複雑に関与するので、大半は教養主義をライフワークとして継続するまでの諸条件を揃えられず分かりやすいカルチャーや価値観のほうに行くだろう。
無論、芸能界でも世襲の芸能人が増えているといった指摘はあるので、どちらもどちらであり、大半の一般庶民は『前者の学力(勉強)・就職型の階層移動』でも『後者の芸能・スポーツの移動』でも大きな成功は得難いのが事実である。
『それぞれの個人のメンタリティ・価値判断や人物に魅力を感じる要素』としては、若い人ほど芸能・スポーツのほうが明るく華やかで、魅力的なものとして受け取られやすいというだけである。この傾向性そのものは、日本でも欧米でも新興国でも、過去の時代でも現代でも大きくは変わらない。
なぜなら『生物的・本能的・身体的な魅力の知覚と承認』には、コツコツと積み上げて習得するような事前知識が不要だからであり、ティピカルな性的魅力や身体・運動能力を活用する芸能・スポーツへの興味関心はいつでも『途中参加(テレビを見たりコンサートに行ったりグッズを買ったりは専門知・文化の系譜の学習よりも格段に簡単である)』が可能だからで、知性趣味や教養主義のような『事前学習を求める参入障壁(大半の人にとって面倒くさい割にメリットが乏しいと感じる学習や作業)』がそもそもないからである。