安倍首相がスイスのダボスのメディア外交で、現在の日中関係が『第一次世界大戦前の英独関係』に似ていると発言して欧米メディアで物議を醸したが、安倍首相は内心では戦後レジーム(平和主義外交路線)を既に脱却し解釈改憲をゴリ押しできるという気分でいるので、『尖閣諸島を巡る武力衝突の可能性』を暗にほのめかすような話し方になってしまいやすいのかもしれない。
軍事予算の積み増しで、尖閣・竹島の力づくの排除的防衛(奪還)をイメージさせる島嶼部奪還の特殊部隊設立(離島の強襲訓練強化)などの方向性を打ち出していることもあり、安倍政権にとって『偶発的な衝突への有事対応(平時の立憲主義体制を一時停止できるような非常事態宣言)』というのはイデオロギー的にはそれほど飛躍したものではなく、世論喚起の効果も兼ねて取る可能性のある政策オプションの誘惑(ブラフ)というのに近いだろう。
首相が現代と20世紀初頭の国際社会(侵略禁止の国際法)や国家体制、国民一般の倫理・教養・発言力の水準、憲法理念、利害関係を軽視して、現代と第一次世界大戦時の外交関係(戦争の可能性)を並列に並べて比較するのは、『戦争は通常の政治とは異なる方法による政治の継続である(戦争は外交の一手段である)』としたクラウゼヴィッツだとかマキャベリだとかの時代の非民主的な国家観・権力観を引きずっているような印象も受ける。
現代の国際社会に調和する自由民主主義国家やその国民の一般的な感受性・倫理観では、『戦争は不可避な自衛(対話不能な相手国からの一方的な攻撃を回避・抑止・撃退するため)の一手段である』とまでは言えても『戦争は外交や政治の一手段である(相手を威圧したり脅したり攪乱したり誤認させたりして利益を引き出す手段)』とまでは言えない。
一般国民の多くは、利益を得るための戦争や犠牲(その犠牲の忌避は自国民だけに限られるものではなくなっている)を望まなくなっており、かつてのように敵対する国の人すべてを憎悪嫌悪・侮蔑の対象(殺しても良い人間ではない劣った凶暴な存在)とするマインドコントロールのようなものを施せる『閉鎖的な情報・移動の環境』ではなくなった。
覇権調整型・利益誘導型の政治手段としての戦争を行ったアメリカが道義的・人道的な非難の矢面に立たされ、アメリカ国民であってもベトナム戦争以降の戦争の正義を信じない人が多いように、『戦争をする権限(国民を兵士として動員する権限)を持つ国家』の正統性が通用する範囲は相当に狭くなっている。
超大国アメリカでさえも、『一方的な侵略や攻撃・大量破壊兵器の保有・テロリストの擁護や隠匿幇助・対外的な攻撃性を持つ危険思想や非人道的な独裁体制』などの大義名分がなければ、あるいは大義名分を捏造してでもこじつけなければ戦争ができなくなっているのが現代であり、一部の独裁国家・宗教国家を除いては『国家のために死ねる国民(特定の国を敵国として憎悪する国民)の意図的な教育』を行うことが殆どなくなっている。
国家と社会、国民と市民、政治と民間、権力者と一般庶民のレイヤーの違いに対して、大多数の先進国の人々が自覚的になってしまった今では、『国家という集団に全員一致の戦闘集団となって帰属する心的体制・社会体制』そのものを民主的な手段によって作り上げることは容易ではないし、『人権思想・個人主義・立憲主義』などの防波堤によって全体のために個人を部品として使役・消耗すること(それを受け容れさせる臣民・国民養成の教育)が確実となる政策は採用されること自体が原理的に拒まれている。
現在の日本と中国の関係が、第一次世界大戦前のイギリスとドイツの関係に似ているかどうかという論点については、『貿易活動の相互依存性・持てる先進国と奪おうとする後進国の利害対立』というフレームワークに類似性はある。
だが、『当時のイギリスと現代の日本の憲法原理(国家理念・国民倫理)の違い』や『現代の日本と中国の相互依存性の量の大きさ・世界経済の消費に占める中国の比率(東アジア情勢の混乱がもたらす世界経済の秩序崩壊)』、『日本以上のGDPを示すようになった中国が持たざる国とまでは言えないこと』、『植民地主義・侵略戦争が容認されていた時代背景と教育姿勢』などを合わせて考えないのは結論を導く上で不適切であるだけでなく、国際社会の日本の憲法原理(戦後の国家運営を貫いてきた平和主義の基本方針)に対する誤解も招く。