映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の感想

総合評価 72点/100点

学歴もコネも外渉資格もないジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)は、何とか採用面接で押し切って22歳で憧れだったウォール街の証券会社(投資銀行)に就職を決める。だがその翌年、金融恐慌に襲われ働いてたロスチャイルド証券は倒産、ジョーダンの株屋(証券ブローカー)としてのキャリアは断絶するかに見えたが、ジョーダンにはロスチャイルド証券のハイテンションな先輩から教わった『非人間的な金儲け(銭ゲバの徹底)の黄金則』があった。

一つ、終わりなき金儲けのためのエネルギーを補充するためにセックス(良い女)を求め続けること。性欲があってやりたいからやるのではなく、稼ぐための興奮状態を切らさないためにやるのだ。証券会社に入る前は学生時代に結婚した奥さんと上手くやっていたジョーダンも、大金を掴み始めてからは見栄えのするど派手な美人のトロフィーワイフに乗り換えてしまい、性的にも道徳的にも倫理観はブッ飛んでどこかに追いやられてしまう。

この映画、全体の3割くらいは男と女の性的事象の過激な表現に費やされている、R指定は当然だが恐らく地上波の21時枠での放送はない類(性的に固い視聴者から苦情が寄せられる類)の作品だろう。

飛び交う英語もすべての会話にファックやシット、ビッチなどが含まれているほど下品さと低俗さを極めるが、どんな手を使ってでも数字を増やせば正義となったアメリカ金融資本の『強欲の原罪』と『カネの無限追求(心身を摩耗する快楽依存)の虚しさ』を訴えかけてくる作品になっている。Wikipediaによると、映画では“fuck”が506回使われており、フィクションの映画作品としては史上最多だという。

一つ、24時間戦えますかの世界で精神的・肉体的な疲弊感(虚しさ)に打ち勝つために、コカインやクラックなどアッパー系のドラッグで常に精神を高揚させ活動的な話しまくる(カモの顧客を押さえ込む)テンションを維持すること。稼げるチャンスで気持ちが乗らない良心が痛む、体力がついてこないというようなロスがあってはならない。

一つ、株に投信に債権に不動産証券にリスクヘッジ債、これら金融商品は数字の増減で利益と損失を感じ取る『幻想の商品』(その大半は実態が乏しく最終的に儲からないカス)であることを理解すること。現金化されるまでは利益は確定されないのだから、カモの顧客には『利益確定』させずに『もっと儲かるという触れ込みの金融商品』に再投資させてぐるぐると資金を循環させなければならない、いったん乗せた列車からは絶対に下ろさず利ざやを跳ね続けろ。

これらの人間性をかなぐり捨ててでも稼ぐ、金儲けの原理原則を教えてくれた上司は、ランチを食べていたレストランで拳を胸に当ててオォ、オォ、ウォーウォウォと独特のリズムを取りながら、アフリカの戦闘部族のような鼻歌を口ずさんで戦闘意欲を自己催眠的に駆り立てていく。

この原始的リズム感のある鼻歌は、ジョーダン・ベルフォートが創設して大成功を収めた会社でも、社員一同が揃って口ずさむという異様な光景が繰り広げられるのだが、『資本主義文明の洗練された金融市場』でお金だけを追求し過ぎると『野蛮・原始の動物的本能(物と性とカネの欲望だけしかない心理状態の循環構造)』に回帰してしまうというシニカルな風刺精神を感じた。

天才的な勧誘・営業・話術のスキルと注目を惹きつけるプレゼンの技術によって、詐欺的なペニー株(非上場・有象無象の安価な株)の乱売を行い、手数料50%をせしめ続けたジョーダン・ベルフォートは、遂に『ストラットン・オークモント社』という証券会社を設立して急成長を始める。

ジョーダンは、『ウォールストリートの狼(ウルフ)』と呼ばれる新進気鋭の起業家として注目を集めるようになり、短期間で数百万ドル、数千万ドルと資産を積み上げていき、そのお金を更にお金を稼ぐために精神を高ぶらせるドラッグやセックスに流し込み、脳神経が薬理と興奮で壊れるほどの地獄めいた快楽の泥沼にどっぷり浸かり込む。

ストラットン・オークモント社で100名以上はいると思われる社員が、わずかな時間も休まずに営業電話を掛けまくり、体力・気力・欲望・興奮状態を絶やさないために頻繁に乱交パーティーのような娼婦を呼び集めたいかがわしい集まりを開く様子は、儲かっている証券会社というよりは怪しげなサークルや新興カルト宗教のようである。稼ぐ結果を出すことだけが正義であり、稼げない奴は役立たずの悪であり、稼ぐためには『人間性・倫理観・共感性の放棄』が必要だから、ドラッグと性愛と集団心理(洗脳的な情報環境)の刺激でずっと脳を興奮させて痺れさせないといけない。

100ドル札を丸めてコカインを鼻から一気に吸引して脳をスパークさせ、疲弊する仕事の傍らでいつも女を抱いて異常興奮し(もはやスーツを着た野獣であり欲望の抑制のない犯罪者に近い)、新たな詐欺的商品を売りまくり営業電話を掛けまくる姿は、『起業家の成功ストーリー』ではなく『欲望の連鎖の泥沼にはまった地獄(餓鬼の群れ)』である。

いくら何千万ドルの資産を持って数千ドルのスーツに身を包み、豪邸や高級車、クルーザーを持っていようと、『重度の薬物依存症・セックス依存症』になって気絶したり涎を垂れ流すほどの精神の陶酔に陥っている姿は、お世辞にも格好良くはないしもはやお金を持っている意味自体がなくなっている。

“カネ(市場経済の刺激)”と“セックス(生物学的刺激)”と“ドラッグ(化学的刺激)”の相互作用が終わりなく無限に循環していくだけの世界は、いわばキリスト教における『ソドムとゴモラ』であり、倫理観や人間性が根底から破壊された人から動物への退行、本能の奴隷(パヴロフの犬)となった世界のカリカチュアである。

餓鬼のように無限の快楽を貪ろうとするジョーダンとその仲間たちを通して、『アメリカの金融資本主義の強欲・狂乱とジョーダン以後のリーマンショックへとつながるクライシスの顛末』を皮肉った実話ベースの映画である。

アブノーマルなベッドーシーンの連続、口汚い単語とスラングの暴言の連発、薬物依存でへろへろになった酩酊状態、かと思えば抜群のプレゼン技術と流暢な営業トークを見せつけるという感じで、レオナルド・ディカプリオの体当たりの何でもありの演技には目を惹きつけられる。

惜しむらくは、なぜジョーダン・ベルフォートがそこまで全てを捨ててまで、人間をやめてまでお金が欲しいのかの説得力のある人生の遍歴の前置きがなかったことだ、証券会社の設立を通した『アメリカン・ドリーム』にしてはあまりに欲望のベクトルが無意味・自滅的に過ぎて、3時間にのぼるソドムとゴモラはちょっとくどい。

とにかく女と薬ばかりを病人のように求め続ける酒池肉林の過剰演出でもあり、『金融資本主義の批判』ありきの作品になってしまっているため、ウォール街の革命児の“wolf”というよりは、もはや脳機能が危険なレベルで障害された“junkie(substance abuser)”にしか見えないのである。