『政治的な愛国心』にはどうしても『外部(仮想敵)との戦い・排他的な結束』を前提としやすいリスクがあるが…

政府主導+大衆迎合の『愛国心の強制』がなぜ危険なのかというと、ただ自分の国や風土、歴史が好きだからという『自然で素朴な愛国心』、個人の人権やプライベートを相互に尊重して争いを無くしていこうというような『リベラルな共生・住み分けを目指す愛国心』は、古今東西において殆ど成立したことがないからである。

愛国心・憲法改正めぐり賛否 建国記念の日、各地で集会

逆に、『自然で素朴な愛国心』や『リベラルな共生・住み分けを目指す愛国心』であれば、自分以外の他人にその愛国心を持つように(国のために自己犠牲を払うように)強制したり、持たないからといって道徳的・政治的に非難したりする必要がない。そもそも『自然発生的な愛国心』であれば、それを何が何でも持つようにすべきだとか持たないのが悪いとかいうような議論そのものが成り立たず、誰もが強制されたり仲間外しの不安がなくても自然に身につけていくだけの話である。

国家特にネーション・ステイト(民族国家)に対する愛国心というのは、近代の国民国家・国民教育に付随して生まれた『人工的な帰属感情・団結意識・自尊心』であり、『戦争・民族憎悪(大集団レベルの排他的な敵対感情)』にまで発展することがない自然発生的な家族愛や郷土愛、同胞愛と同列に並べるのは間違いではないだろうか。

『排他的な愛国心(愛国のための自己犠牲の顕示)はならず者の最後の拠り所』とも言われるように、集団闘争の覚悟を決める愛国心さえ持っていればそれ以外の生き方や倫理観、価値観が不問に付されたり、外国と争い合う愛国心だけを持っていないばかりにそれ以外の側面で優れている人でも『非国民・国賊』として世間の敵のように糾弾された時代もあった。

基本的に、権力に強制される愛国心は原始共同体的な『敵か味方かの区別・烙印』につながり、愛国心を持って国家に忠誠を誓っているかどうか(国家のための自己犠牲や不利益を喜んで甘受するかどうか)をお互いに監視し合うような『息苦しい相互監視社会(五人組や村八分の仕組み)』の形成を促進してしまう。

強制される政治的な愛国心は、みんなが一つになって凝縮して団結する感情を煽り立てるだけではなく、『みんなとは違う価値観・生き方の否定』を導いたり『みんなに共通の仮想敵(嫌って軽蔑して憎むことが当たり前の外国・異民族)』を設定したり、『愛国心の証としての自己犠牲を払わない人』を道徳的・法的につるし上げたりするリスクと絶えず背中合わせである。

その結果、『みんなの共通敵との戦い・憎しみに参加しない自由(自分は自分でやっていき集団行動に同調しないとする自由な選択)』が抑圧されていき、思想信条・言論・表現の自由という近代思想の成果が、『愛国心の条件を満たす限りにおいて(反国家・反政府・反自民族的な姿勢を見せない限りにおいて)という条件』の下で奪われていくことにもなる。

利己的な非国民や売国奴、国賊などのレッテル(お前は自分さえ良ければ仲間同胞がどうなってもいいのか、そんなに自分だけが可愛いのかという道徳的非難・自己犠牲の強要)を貼られることを恐れる国民が、ますます『仮想敵を嫌って憎む愛国者』であることを自己アピールしようとするようになる。

いったん自由主義や脱ナショナリズムが進んだ日本がそこまで退行するとは思えないが、中国・韓国の反日教育の弊害(自分自身は余り関心がなくてもそこまで嫌いでなくても、社会的・政治的・体面的に『反日(日本は嫌いで憎い)』であるように振舞わないと非国民として仲間外れ・糾弾を喰らう弊害)のような事態を招くことにもなる。

政府(権力)や政策に強制される愛国心は、国民をすべて表層的にではあっても『共通の仮想敵と争い合う政治的主体(愛国心を証明するだけの自己犠牲や負担に応える忠誠心を発揮する国民)』に変えていく影響や意図を持っている。

欧米列強や大日本帝国を中心とする人類の歴史を振り返れば、教育された政治的な愛国心が『エスノセントリスム(自文化中心主義)の優越感・傲慢さ』につながることで、自民族が他民族よりも優れているという『仮想敵な有能感(自国・自民族のための外国・異民族の支配の正当化と他者の痛みに対する想像力の思想的な欠落)』を生み、領土・権益の拡大傾向を正当化する民族感情を生み出したりもした。