『動物園』という人工飼育環境と動物の権利(アニマル・ライツ)

人間にとって非野生の人工飼育(直接間接の管理)する動物は、『家畜(食肉・皮革・労働力などとして利用する動物)』か『ペット(観賞・愛玩のために利用したり品種改良したりする動物)』かにならざるを得ず、人間が野生動物と共存共栄できる生態的領域は非常に狭い。

わずかでも人間の農業・牧畜・開発・安全とのバランスを崩せば、野生動物は駆除・駆逐される過酷な運命に晒されてきたし、適切な駆除(頭数管理)ができない野生動物の繁殖・増加は、文明社会に生きる人間にとって様々な脅威や危険、被害をもたらす。

デンマークの動物園、キリンに続き親子ライオン4頭を殺処分

現代日本においても、山間部でニホンザルやエゾシカ、イノシシが急増して田畑を踏みあらす被害が増加していて、地元の人たちは頭数管理の必要性を認識して求めているが、猟友会の衰退・高齢化や人員不足、動物保護条例などによって野生動物と共生可能な狩猟・駆除は困難になっており、次第に人が住める領域は狭くなっている。

現代に至って、人間は動物愛護精神や環境保護思想を発達させて、『人為・人工に対する自然・環境の優位と保護』を訴えるだけではなく、動物にも人間に近い権利を認めるべきだ(死・苦痛・恐怖を回避する権利や人間に近い心理が動物にもある)とする『動物の権利(アニマル・ライツ)』の思想が説得力を持つようになってきている。

今や先進国のペットは、見知らぬ他人よりもその安全や健康、快適さに配慮される存在であり、愛玩されるペットの数は子供の数を上回り、人間の孤独・寂しさ・疲れを慰撫したり愛らしい動作や反応で気持ちを和ませてくれるペット関連市場も拡大傾向にある。

人間の自由意思と直接的に衝突せず、生意気な自我精神(私は~、あなたは~)を言語化してあれこれ反論や要求をしてこない愛玩動物(ペット)は、現代では『他者である人間』よりも身近で安心できたり可愛かったり大切にしたい存在になることが少なくない。

動物園で飼育されているライオンやキリンなどの動物を殺処分にするのは、確かにそれまで商業利用して利益を得る道具にしていた動物たちを、自分たちに必要がなくなり利益を生み出さなくなれば処分するという『人類の利己性・生命の道具的利用・残酷性・無慈悲性』の象徴的な行為である。

だが、そもそも論からすれば、野生動物が野生(自然)の環境で棲息できなくなりつつある経済開発が進む現代社会、野生動物を見世物として飼育しながら種の保存・生態の研究も行うという商業的な動物園・水族館そのものが、『人間中心的(人間原理的)な近代思想』に基づいているのであり、野生動物にとっては動物園で寿命が来るまで管理・飼育されることが幸せであることかどうかというのも『人間の想像力』に依拠するものである。

動物の権利(アニマル・ライツ)といっては見ても、食肉用や労務用、駆除対象の動物が存在する限り、その権利なるものが適用されるのは『人間にとって食肉・駆除の必要性がない一部の野生動物』に限られるのであり、野生動物と家畜動物とペット動物の生命の価値や権利の差異の線引きをすること自体が、極めて利己的な人間原理主義でもある。

人間が動物の権利を十全に尊重することはおよそ不可能だが、人間の動物に対する配慮や愛護、権利感覚は、『不要不急の動物の殺生をできるだけしない(人間の動物を対象とする残酷性や利己性をできるだけ行動化したり表面化しない)』という人間同士の倫理性の判断に依拠するものである。

例えば、牛肉や豚肉、鶏肉は美味しいので、大多数の人間は『食肉文化』を『動物の権利』のために放棄することはしないが(僕だってそうであるが)、『屠殺処分の残酷さや利己性を表面化(意識化)しない倫理性=直接的に家畜動物が殺される場面が見えないようにするシステム』が保たれていれば、大多数の人間は食肉文化を全面放棄するベジタリアンとしての生活を強制されずに済む大きなメリットが享受できる。

それを臭いものに蓋をしているだけの欺瞞・偽善だと非難する人(倫理と行動を完全に一致させろという道徳者)は時にいるが、人間の実践する倫理の多くは、『人間中心主義的な欺瞞・妥協』を踏まえたものであり、それが大多数のマジョリティにとっての許容可能な倫理世界の現実なのである。

動物愛護や動物の権利の理念を突き詰めれば、動物同士は食物連鎖の摂理によって『他の動物の生命・感情』などに配慮したり保護したりすることはなく、同種の動物の子孫さえ殺戮するゴリラのような生態もあるので、『動物の生命尊重』という規範自体が人間的な意識・感覚に基づくものとは言える。

無論、動物の権利を含む生命倫理とは、『人間が自分が殺されたくない(苦痛を感じたくない)という生存本能を軸にして、その思いを他者・動物の生命や権利の尊重へと転換させたもの』であるから、その出自からして利己性と利他性のハイブリッドであるのだが、倫理的な自意識の拡張と経済生活の豊かさの増大によって、現代の先進国に生きる人間はかつてないほどに、『苦痛・死を免れるべき対象の範囲』を人間以外の動物にまで拡大するようにはなっているのである。

しかし、動物の権利にまつわる倫理観の限界は、『人間にとって不必要な動物の殺生はするべきではない』という地点にとどまることである。ライオンやキリン、ゾウなどの野生動物と比較すると、家畜動物・ペット動物の権利保護のレベルは格段に低くならざるを得ず、ライオンのほうが牛・ブタ(食肉用の家畜)よりも保護されるべき生命の価値が高いという判断基準そのものが、ライオン・牛・ブタの自意識(人間が想像する自意識だが)とは無関係な『人間的な情緒・共感・種の希少性』に基づくものである。

人工的な種の保存の営みや絶滅危惧種の頭数管理・保護というものも、人間を『すべての生物種の頂点(特別な能力と知性を持つ管理者)』に位置づける階級主義的なものだが、生命誕生の歴史から現代までに99%以上の種は絶滅したとされているが、その種の絶滅が悲しむべき事態だという判断も人間にしかないものである。

例えば、過去に絶滅したナウマンゾウやサーベルタイガー、ニホンオオカミ、恐竜などが『自分たちは絶滅したくなかった。もっと多様な種が地球上に存在していてほしかった』という人間的な意識や意思を持っていたかというとそうではなく、地球の生命の歴史を俯瞰して『完全性のある生物種のカタログ』のようなものを脳内に作り上げているのは、動物の側ではなく人間の側なのである。

自然世界はむしろ、火山活動にせよ大洪水にせよ隕石衝突にせよ、そういった『完全性のある生物種のカタログ』や『絶滅しない種の長期存続性』を打ち壊していく作用を及ぼして、種の変化としての進化を促してきた。その意味では、人間の持つ各動物の種をできるだけ長く保存することが正しいとする倫理観のあり方は『反自然的』であるとも言えるのだが、意識と知性を持ち技術で環境を改変していく人類という種は、その本性からして反自然的(人間中心主義的・存在保存的)であることを宿命づけられている。