憲法改正の手続き法である『国民投票法』では、当初、法律の施行から3年以内に選挙権年齢を“18歳”に引き下げるとしていたが、民法との整合性や霞ヶ関の成人年齢の見直しに対する抵抗もあって、選挙権年齢の引き下げは見送られていた。
『選挙権』というのは未来の国政や国民生活に対する関心・知識・判断に基づく政治参加の権利であるため、政治・社会・生活にまつわる独立的な見識や判断力が備わっていることが暗黙の前提となっており(被後見人・知的障害者にも選挙権はあるので能力的というよりも関心があれば良いという形式的なものではあるが)、『選挙権年齢』と『成人年齢』は一致することが望ましく混乱も少なくなる。
だが、明治時代に制定された民法の成人規定(20歳を成人とする規定)は、各分野の法律の規定や判断にも大きな影響を与えているため、成人年齢を20歳に変更すると、それと連動して『民法・少年法・刑法・刑事訴訟法』などの改正もしなければならなくなる。そのため、その大掛かりな法体系全体の見直しの作業コストを敬遠する勢力の抵抗は強くなっており、また18歳では成人にふさわしい判断能力や責任感が備わっていないのではないかという世論の反対もある。
しかし、現在の学校制度と照らし合わせた場合には、ほぼ100%の進学率になっている高校を卒業する年齢が“18歳”であり、進学にせよ就職にせよ、高校卒業後の生活の自由度や自己決定の範囲が広がることを考えると、20歳よりも18歳を成人年齢とするほうが区切りが良く、責任意識を明確化する節目になりやすいメリットはある。
高校まではほぼ100%に近い進学率であるため、みんながどこかの高校に通学するという意味では学力・意識の差はあっても、横並びの義務教育の中学の延長線上のような感覚になる。だが、『高校卒業後』は自分の人生や進路を自分で考えて選択していくという自己決定の影響力が非常に大きくなり、『親・先生の保護や管理の目線』も行き届きにくくなるため(それだけ自立心と自制心が求められるようになるため)、20歳よりも18歳を成人年齢とするほうが現代においては妥当という感じがある。
少年犯罪に対して凶悪犯の刑罰が軽いとか、実名報道がないのはおかしいという批判もあるが、その批判の多くも『高校生以下の明らかに判断能力・身体能力が大人よりも劣る保護された未成年』よりも『18歳以上の判断能力・身体能力がほぼ大人と同等になる(大人でも簡単には力や言葉で組み伏せられなくなる)学生・会社員・無職などの青年』に対してのものである。
18歳を成人年齢とすることで、能力がないものを保護するという『少年法の精神』をより明確化・限定化することができ、高校卒業後のアイデンティティが拡散しやすい時期の凶悪犯罪や無責任な非行行為を抑制しやすい効果が期待できる。
『20歳までは犯罪をしても刑罰が軽い・20歳で不良や犯罪行為を卒業するべき(高校卒業後の約2年間は悪事をしてもまだ子供扱いされるので最後に派手にやろう)』といった意識的な法律の穴をふさげるだけではなく、高校を卒業すると同時に成人としての取り扱いがなされることが周知され、その代わりに権利・自律も保障される(タバコ・酒・契約なども認められる)という仕組みのほうが分かりやすい。
少年法の精神そのものが『少年法の規定で刑罰が軽いからという理由で、故意に犯罪や非行をして悪びれない判断力のある少年を想定していない』ことからも、20歳よりも18歳のほうが成人年齢として適切だろう。18~19歳という年齢は、ドロップアウトした不良集団が凶悪化(本格的な犯罪集団化)する恐れもある年代で、大人でもその年齢の相手に襲われれば、小中学生の子供を相手にするように簡単にあしらったり力で制止したりできるわけではない。
善悪の判断能力や身体能力の上で18~19歳は『子供扱いすること(大人が手加減して簡単にたしなめたり逸脱行動を制止すること)』が難しく、物理的な力も大人と同程度にまで強くなるので、凶悪犯罪を遂行するだけの実力を潜在的に有するという見方ができるし、殺人や強盗、迷惑行為をしてはいけないといった最低限の分別ができないほどに精神的に未熟であるとも言えない。
憲法改正と連動した国民投票法改正案では、自民・公明・民主が2年以内に選挙権年齢を18歳に引き下げることで同意したが、改憲に関しては橋下徹市長のような『単純な多数決原理』で条文を変更できるという考え方には賛成できない。
『人権擁護原理を中核とする立憲主義・自由民主主義・近代思想の教育と理解』を政治家と国民が十分に踏まえていなければ、国民投票を実施する土俵が整ったとは言えないが、国民の基本的人権と関わることもある憲法改正が『時代の勢い・メディアの論調や空気』に流されるような形で行われることがないようにしたい。