松本清張の『梟示抄(きょうじしょう)』の感想:元参議兼司法卿の江藤新平の無残な最期

松本清張が幕末から明治初期の時代を題材に取った最初期の短編集『西郷札』は、歴史小説の読み応えのある秀逸な短編が多く収載されている。ミステリー作家ではない松本清張の歴史的な人物の選定眼や独自の歴史解釈の妙味を味わうことができる一冊だ。

『梟示抄(きょうじしょう)』とは聞き慣れない言葉だが、端的には明治初期の刑法にあった梟首刑(きょうしゅけい)を受けた人物の抄訳という意味である。梟首とは犯罪者が斬首(打ち首)にされた後に、三日間にわたって晒し首にされる見世物(見せしめ)の要素のある公開処刑のことであり、日本でも1879年(明治12年)の太政官布告で非近代的(野蛮)な残虐刑として廃止されるまで存続していた。

江戸時代には、下手人の首を市中で晒し者にする『獄門』と呼ばれる刑罰が梟首に当たるが、死体の埋葬や葬礼を許さない名誉剥奪の刑罰という側面も濃厚に持っている。

明治維新の後、『征韓論』を主張して政争に敗れた西郷隆盛を押しのけ、最高権力の座に上った参議・大久保利通は、この梟首刑を『佐賀の乱(1874年)』を主導した江藤新平に対して容赦なく執行するのだが、元司法卿(元閣僚)の法理を修めたエリートであり維新十傑に数えられる肥前出身の江藤新平を『ただの賊(反政府勢力)』として名誉を奪い晒し首にしたことで、大久保利通は薩長藩閥が要職を悉く牛耳る政府(官軍)の正当性を天下に知らしめることとなった。

江藤新平が司法卿の地位を辞任して故郷に下野した理由の一つは、『征韓論が容れられなかったこと』であるが、その前段階として『裁判所増設・司法権の独立のための司法改革』を長州閥の井上馨と山県有朋に妨害されており、江藤新平の内心では『薩長中心の藩閥政府に対する不満』が兼ねてより鬱積していた。

新政府における権力・ポストの不公正な配分に対する不満は、明治維新の実現に貢献した『薩長土肥の四藩』のうち、直接の武力闘争にほとんど参加できなかったために政府内の影響力が小さく抑えられた土佐藩と肥前国(佐賀藩)出身の士族に特に強かった。

維新最大の功労者であり最高の軍人(薩軍のカリスマ)とされていた西郷隆盛が、報われない失業士族の救済(働き場所の創設)の意図も含んだ『征韓論』に敗れて鹿児島県に下野したことで、土佐藩・佐賀藩(肥前)の士族は『西郷率いる薩軍(私学校党)との連携』によって、現在の気に入らない薩長藩閥政府を転覆させられるのではないかとの危険な野心を抱くことになる。

西郷隆盛は当時大久保利通を遥かに凌ぐ軍事的な名声と伝説に包まれた別格の存在であり、明治新政府に留まっている限りにおいて大久保は陸軍大将の西郷を押さえ込んで軍事を掌握することは不可能だったが、西郷は世俗の欲得を嫌って古き道徳を重んじる潔癖な理想主義者であったため、新政府が己の理想・道義(征韓論のように兵力活用の場を政策的に作る士族同胞の顕彰・雇用)の道筋から外れるとあっけなく公的な権力・地位を手放して鹿児島に帰ってしまう。

『西郷が動けば政府が倒れる』と不平士族や世間が騒然とする中、大久保利通は幾度も故郷の鹿児島県に密偵を送り込んで西郷の動向(反乱の気配)を強く警戒していたが、西郷は佐賀の乱・萩の乱・秋月の乱など次々と不平士族の反乱(同時期に決起すれば薩軍に助成したことが確実な兵力)が官軍に鎮圧される情勢を黙認し続け、明治10年(1877年)という薩軍の私兵(西郷シンパの私学校党)以外に頼るべきものがなくなるまで反乱の狼煙を上げなかった。

司馬遼太郎などは西郷本人に明治政府転覆の意図や転覆後の近代化のビジョンがなかったため、血気に逸る私学校党(時代に適合できず居場所を失いつつある旧士族)の軍勢を自らのカリスマで抑えこめるだけ抑え込んで、西南戦争で敗北を覚悟した上で決起したとの解釈を取る。

確かに下野後の西郷は異常なまでに腰が重く、反政府軍となり得る土佐・肥前の同志の呼びかけを全て『未だ時期ではない』として断り続け、のんきに山野渉猟や湯治の日々を送って、体型も在京時より更に肥満していたとされる。官軍の組織・装備の基盤が固まった時になって、無謀な決起に至っている。

西南戦争の戦場でも西郷はかつてのように前線での戦略立案・指揮・督励を全く行っておらず、輿の中に半ば幽閉されたような状態だったという。桐野利秋らの唱えた熊本城正面突破という損耗の激しい無意味な進軍経路を議論もなく是認したとされる。

征韓党を結成した江藤新平は、その本質において才気煥発な文官であり軍勢を率いるような武官ではない。憂国党の島義勇と連携して起こした1874年の『佐賀の乱』も、その大部分を『西郷隆盛の決起』を当てにした他人任せなもので、佐賀で率先して反乱を起こせば、西郷もそれに合わせて決起してくれるだろうという楽観的な見方に頼ったものだった。

だから、西郷が動かなかった時点で佐賀の乱は失敗が決まっていた。戦いに敗れて国家反逆罪の逃亡犯となった江藤新平は、湯治中の西郷の元を訪ねてけんもほろろに援軍を断られると八方手ふさがりとなり、旧友の同志・林有造のいる旧土佐藩の助成(同志との再会・雌伏と捲土重来)だけを頼りにして過酷な山越えの逃避行を行う。

薩摩から日向に入り、八幡浜から愛媛の宇和島に上陸した江藤新平ら9人の逃亡者は、官吏の追求を逃れて3月の夜の山へと軽装で入っていくのだが、降雪と強風の酷寒に襲われて、険しい岩場や複雑な道に行く手を阻まれたりする。こういった逃避行の詳細な描写は、創作のイマジネーションに依拠したものではあるが、教科書的な知識からは具体的なイメージが湧きにくい場面であり、小説ならではの臨場感が楽しめる。

遭難の危険と戦いながら何とか山を越えても、小さな海岸沿いの寒村にまで『お上の指名手配(見慣れない旅人の宿泊禁止の命令)』が出回っており、どれだけお金を払うといっても一夜の宿を借りることもままならない、中央集権的な明治政府の威令は既に四国の小さな村にまで十分に浸透しようとしていた。

必死の思いで念願の土佐(高知県)の地を踏んだ江藤新平ら3人だが、最も懇意にしていて共に反政府の兵を上げる約束をしていた林有造・片岡健吉ら土佐の同志の反応は冷ややかなもので落胆せざるを得なかった。『いったん挙兵して敗れたからには賊名を免れない。江藤君ほどの人物であれば自分で熟考して進退を決めて欲しい』といい、頼りにしていた旧友の林有造は、明らかに逃亡中の賊(政府の敵)となった江藤との間に距離を置きたがっている風であった。

薩摩と土佐との連合軍を結成して官軍を追い落とすという江藤新平の楽観的目測は大きく当てが外れて、明治7年3月29日、終に逃げ切ることはできずに捕縛されたが、江藤の才知を非常に警戒していた大久保利通は、捕縛の報告を受けて常になく安堵と喜びの感情を満面に出したという。

江藤新平を裁いて梟首刑(死刑)を言い渡す裁判官は、左院副議長時代の江藤が自分の裁量人事で取り立ててやった元土佐藩士の河野敏鎌(こうのとがま)であったが、大久保利通が極刑ありきで監視している裁判において、江藤の情状酌量を願い出てくれる政府の重要人物はもはや一人としていなかった。

江藤の司法官としての才能を評価しその境遇に同情的であった三条実美・岩倉具視、肥前出身の同郷人である大隈重信・副島種臣・大木喬任といった面々も、長いものに巻かれろ(時代・派閥闘争の大勢に逆らうなの保身)であり、自らが政治的なリスクを取って大久保と対決してまで江藤を助命しようとはしなかったからである。

完全に孤立した江藤新平は混乱して、かつて恩義を掛けてやった裁判長・河野敏鎌の裏切りを悪罵するが、最悪でも無期懲役程度の刑罰を受けて、官軍に弓を引いて許された榎本武揚のようにいずれ恩赦をくだされて再び政界の闘争の場に戻れるという甘い期待を持っていた…。

だが、大久保利通の断固たる極刑の結論と西郷牽制の意図(反政府勢力への見せしめ)は変わることなく、かつての部下だった河野の口から告げられた冷ややかな判決は『梟首申しつける』、生命さえあれば敗者復活もできるとの江藤の最期の希望はあっけなく吹き消されて、弁明する暇も与えられずに警吏から無理矢理に引きずり出された。

参議兼司法卿というおよそ初期明治政府の最高位にあった法理の秀才江藤新平は、現代であれば『閣僚+最高裁判所長官』とでもいうべき顕官であったが、諸行無常の暴風に弾き飛ばされた。江藤は下野して半年も経たずに、虚しく首を刎ね落とされ名誉・士族籍を剥奪された晒し首の賊として果てることになったのである(晒し首の写真が市中に商品として出回って更に貶められた)。凄絶な明治政府の権力闘争の勝者としての地歩を固める大久保利通は、裁判の梟首判決を受けて茫然自失となった江藤について、『江藤醜態笑止なり』と書き留めて冷笑し、梟首された後には『大安心』との日記を残した。