レヴィナスは他者との対峙や対話が生み出す倫理の起点を『汝、殺すなかれ』の根本規範に求めており、『他者の顔』と向き合って語り合おうとするものは決してその人を殺せないが、『他者のカテゴライズされた観念(敵対者・犯罪者・異民族・異常者として分類された実際に顔を見ないままの他者)』だけを頭の中で考え続ける人は、戦争・虐殺・殺人(重犯罪)・処刑・監禁拷問・放置(見殺し)などあらゆる残酷な行為を他者に対して行うことが潜在的に可能であるとした。
能力的には殺せるのに殺さない(『顔(相手の人格・背景)』と向き合った相手を殺したくないと思う)のが人倫の基盤であり、現実的には見捨てていっても良いのに見捨てずに援助するのが人間性の発露なのだというのがレヴィナスの倫理学的思考であるが、その根底には原始的時代における『カニバリズム(人肉食)の禁忌』という文明的・人倫的な感受性の芽生えが置かれている。
その人倫・人間性を信頼できなくなった人間は、類似した価値観や生き方を持つ仲間集団から外れた異質な他者を排除しようとする『全体主義の暴力機構(管理・支配・懲罰のシステム)』を自ら作り上げていくとした。更に現代では『機会の平等の前提・結果から類推される能力や努力の高低』によってすべてが自己責任(自業自得)として帰結されたり、かなりの人が『他者を助ける余裕がない存在としての弱者意識(被害者意識)』を持つようになったことで、他者の顔と向き合うことにある種の恐れとプレッシャー、煩わしさを感じやすくなった。
『他者の顔』をできるだけ見ずに自分の世界を守るという生き方によって、大勢の他者の姿(顔と向き合ってまで面倒を押してまで応答しあう他者)や共同体的な包摂は次第に失われているが、そのことが逆説的に自分のために生きることの閉塞感や今ある状況・自意識からの逃走の欲求を強める要因にもなっている。
レヴィナスは弱者の顔を見せて告発する他者として、『悲惨な人間・飢えた人間・裸の人間(隷属する人間)』を例示したが、現代ではそういった人間は法律上あるいは建前上はほとんど存在しないことになっており、存在するとしてもその救済や支援は公的な社会福祉(行政担当者・福祉専門職)の仕事であるとされるだろう。
機会の平等と義務教育、福祉的支援が保障されたと信じられている現代社会でそういった境遇に陥ることの原因の一端は、本人の自己責任(能力・努力の不足や怠慢)にあるはずだ、私の周囲にいるまっとうに生きている勤勉な普通の人たちはそんな境遇にはなっていないのだからという『顔と向き合わないで済む免責理由』も強力である。
システムと自己責任論(市場決定主義)によって、『人倫・人間性の萌芽』が再帰的に摘み取られるということは、『他者の顔』が『他人の顔』となり『他人の顔』が『見えない顔(無関係な顔)』へと変質することを意味する。
だが、人間が倦怠・怠惰・疲労・無意味の苦しみを離脱する経路は、『自分のためと他者のための融合』が『他者の顔への相互的な贈与』を媒介として成り立つところにしかないとするレヴィナスの哲学は、そのまま『意味ある世界とは他者がいる世界であるのテーゼ』へとつながっていく。
なぜなら、事物にせよ言葉にせよ『他者に対する指示・応答・やり取り・テーマの共有』を介さなければそこに意味は生じず、ただ沈黙したままの人が無人の荒野でいくら便利な道具や遊び、快楽ばかりを享受しても、それに意味があって飽きることがない人間というのは想定できないからである。
レヴィナスは自分が自分のために生きることのエゴイズムを否定せずに人間の生の基盤に置くが、エゴイズム(利己主義)は必然的に『他者の顔(他者と向き合うことによる対話・やり取り・承認・愛情)』などをも要請するから、そのためのアルトルイズム(利他主義)へと自然に移行せざるを得ないと帰結する。
レヴィナスの相互利他的な共同性は原始的共同体(狩った獲物や集めた木の実の平等な配分)のイメージにも重なるものだが、『“私”の客体化・贈与性』というものを国家主義や社会規範に依拠せずに、個人の倫理と他者の顔との対峙において可能にする倫理の根本に触れるものでもあり、人類の共生や世界の平和、世代の継承(生物の繁殖と生成消滅の意義)といった壮大なテーマにも連結している。
現代社会では、個人の活動領域の細分化・個別化と再帰的な自己責任化(自己選択の帰結としての現状)、少子化の進展による世代断絶(本能衰退)によって、『“私”の生』と『他者の顔からの呼びかけ』の距離が開いているとも言えるが、レヴィナスの生成と繁殖の哲学は『現代の生の苦難・重圧の原因』を他者との関わりによって解明しようとするものでもあった。
エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と現代の生きづらさの要因の考察:1
エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学とエゴイズム・逃走の欲求:2