同盟国(密接な関係にある国)が攻撃を受けた時に、日本も一緒になって防衛・護衛(応援)のための戦闘に参加できるという集団的自衛権には、『日米同盟の深化(米国の世界戦略との共同歩調)』と『国連の平和維持活動(国際協力活動)に対するコミットメント』という二つの側面がある。
前者の『日米同盟重視』は、20世紀の連合国軍の中軸を占め、『米ソ冷戦』にも勝ち残った勝ち組のアングロサクソン国家アメリカ(自由主義を推進する世界最強の軍事国家)に追随してさえいれば、双務的な日米同盟が万全の国家安全保障として機能するだけでなく、自由・人権を擁護する価値観闘争においても優位なポジションを保てるという信念に支えられている。
後者の『国連中心主義』は、国際機関である国連と普遍的理念を示唆する国連憲章の権威を日本が積極的に認めて、国連が行うPKOや災害復興支援などの役割を日本が自律的に果たすために、共同で任務に従事する友軍が攻撃を受けた場合に『駆けつけ警護』を可能にするものとされている。将来的には、国連の安保理・常任理事国の決議を得た『侵略国家・虐殺国家に対する集団安全保障体制(国連軍による軍事制裁)』に、日本も自衛隊の犠牲を覚悟して参加するといったレベルの集団的自衛権も想定される可能性がある。
集団的自衛権の行使をしなくても自国を侵略から守るという意味では、自国が攻撃されたり攻撃される恐れが十分に急迫している時に武力行使できるとする『個別的自衛権』でも対応が可能である。
そのため、集団的自衛権を行使するということは、『軍事同盟・友好関係による仮想敵の設定(仮想敵を攻撃することによる敵対関係の形成)』を意味することになり、集団的自衛権は武力による威嚇を含んだ『抑止力』として『仮想敵国の危機感・軍事緊張(軍拡競争)』を煽る恐れも強くどっちに転ぶかは分からない。
軍事力で仮想敵国を間接的に威圧・脅迫する『抑止力』は、将来の戦争を先延ばしする効果はあるかもしれないが、勢力均衡の米ソ冷戦下でキューバ危機や複数の代理戦争が起こったように『抑止力による威嚇・圧力』が強まれば強まるほど、潜在的な反発心(相手の真意を疑ってやられる前にやったほうが良いの先制攻撃の誘惑)も高まりやすい。
相手にミサイルや銃口を突きつけ続ければ平和が維持できるというのはアドホックな考え方であり、『武力による問題解決の否定・人権尊重という価値観』や『国内経済の豊かさや平和主義教育による国民の不満・攻撃性の水準の低さ(外国人が自分たちと同じ人間であることに対する想像力)』がなければ、外形的な見せかけの平和(平和の背後に武力をちらつかせた状態)は長続きしない。
日米欧の間でなぜ武力戦争が起こるリスクがほとんどないかは、『武力による脅し合いの均衡(相手の核兵器や武力を牽制するために同等以上の武力を向けているから)』ではなく『価値観・信念の類似性・経済社会の豊かさ(自由民主主義や人権の尊重や経済の結びつき)』があるからである。
日本やアメリカ、EU加盟国の間で侵略戦争が行われるリスクというのは現実的にはほぼゼロに近いが、それは日本・アメリカ・EU諸国の政治体制が民主主義的であり、人権が一定以上に保障された国民の教育・生活の水準が高く、宗教的な狂信や軍国的な強制から距離を置いた『人を殺してまで何かを手に入れようとしてはならない、政治的宗教的な目的のためでも殺人をしてはならない、自国・自民族だけが正しいわけではなく相手にも言い分がある(できるだけ暴力を用いずに問題解決を交渉して進める)』という文化・価値観・態度・生活の余裕があるからである。
紛争・内戦・人権侵害(虐殺)のリスクを高めている国として認識される『中国・北朝鮮・中東諸国(シリア・イラク・イラン・アフガニスタン)・アフリカの独裁国』などでは、まず民主主義政治が行われておらず、政治権力が特定の血族・軍人・勢力に独裁されていて自国民の人権・生存を守るといった感覚そのものがないことも多い。軍隊は仮想敵に対してだけ向けられているわけではなく、国内の反体制派・政権批判が増加しないように自国民も同時に威圧している。
共産党の一党支配や独裁者の独裁体制が敷かれていて、国民が国家・民族のために戦って死ぬことが義務であるというような洗脳的な軍国教育(仮想敵の設定と国民の道具的活用)が行われていたりもするので、『先進国との価値観・文化・平和主義教育』とのすり合わせやそれに基づいた対話交渉が進めにくいという障害がある。
国家安全保障において軍事力の強化を『抑止力』と言い換えてもてはやすことで利益を得るのは軍需産業(米国の軍産複合体・民間軍事会社・石油メジャー・周辺産業のような営利事業)か権力者(国家的危機を煽ることで国民を政府・体制に従順な存在に変えていける)くらいなものかもしれない。
実質的な抑止力は、『途上国の貧困や飢えや教育欠如の緩和・支援』『独裁国家に対する民主的・自由主義的な体制変革の間接支援』『平和主義教育や人権感覚・文化交流の強化』『経済的な相互依存や物資支援・人材交換と技術協力』のほうが、政治的・軍事的な目的で人を殺してはならないという心(外国人でも話し合いに応じてくれたり困っていれば助けてもくれるという思い)を人々に植え付けていくという意味で格段に高いだろう。
徴兵制に関しては、『現代の高度なハイテク戦争や兵器の取り扱いではアマチュアのかき集めの兵隊は不要で足でまとい』『徴兵した国民を扶養したり共同生活する施設を建設したりする財源がない』『先進国の大半は徴兵制ではなく志願制である』といった理由で、日本で徴兵制が採用されるはずがないという意見が多く見られる。
現実的には、仮に徴兵制が導入されても、大半の国民は徴兵になど行きたくないだろうから、その政権はメディアと国民から集中砲火のバッシングを浴びて短期間で倒れるだろう。次に支持される政権が徴兵制を廃止すると思われるので、結果として徴兵制は導入できないということになるが、徴兵制実現の前によほど念入りで周到な『愛国主義・全体主義・仮想敵の脅威の洗脳的な教育』でも行われていれば多少は導入しやすくはなるのかもしれない。
徴兵制を採用しなくても、新自由主義経済やグローバル経済の影響によって、雇用が減少したり所得水準が低下したり失業者が増えたりすれば、『自衛隊の雇用待遇の引き上げ・奨学金の返済免除や就活での評価上昇などの特典』によって、自発的に自衛隊に就職したいという若者が増えるかもしれない。アメリカのような『経済格差や学費支援(付加的な恩恵)による間接的徴兵』が成り立つ可能性があり、これは法律的な強制ではないが実際的な強制に近い作用を持つだろう。
安倍政権や自民党が憲法9条の実質的な解釈改憲を容認した経緯を考えれば、身体の自由を定めた憲法18条『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない』が徴兵制の決定的な禁止条項として機能するかは曖昧である。
国家権力が恣意的に国民の身体・行動の自由を奪うかもしれないリスクについて、憲法18条は禁じていると読めるが、『徴兵・兵役(軍務)』は東西の国家の歴史においては戦士階級(武士・西洋の貴族などの支配階級)の義務であると同時に権利・名誉でもあったので、個人の生命を重要視する現代の価値規範を無視すれば徴兵は苦役ではなく名誉ある義務だという戦前回帰のアクロバティック解釈もできないわけではない。
『徴兵』は現代の高度な軍事活動には無意味で高コストだから導入されるはずがない、憲法18条の解釈によって徴兵は許されないというのが通説の政府見解であるというのでは、将来にわたっての徴兵禁止は不明確であるので、安倍首相は徴兵が絶対にありえないというのであれば事後の解釈変更の余地をなくすために、憲法9条の加憲の改正を発議し『3項 国は国民をその意思に反して徴兵してはならない(強制的な徴兵制度はこれを禁止する)』といった項目を加えても良いのではないか。
『軍隊』に若者を教育する効果があると思う心理は、部活の理不尽な上下関係によって礼儀作法や協調性が学べるといった考え方とも共通している部分があると思う。
日本人にとっては、『上位者(目上・先輩)には従順に従わなければならない・理屈を言わず口答えせずに場の秩序に加わらなければならない・わがままを言わずみんなと同じように行動せよ・理不尽な環境や関係こそが社会の現実だ』というのは比較的伝統的な価値観に近いとも言える。
良く言えば『集団協調性・秩序志向性(みんなの協力やわがままの抑制)』であり、悪く言えば『個人の抑圧・理不尽の容認(いじめの正当化や暴力の容認のリスク)』でもある。日本人のいう軍隊教育には、『多少の体罰・しごきの必要性』だったり『上下関係の区別を身体的に知らしめる躾・かわいがり』だったりが含まれていることも多いが、閉鎖的環境や身分制・指揮命令系統における従属性を身体で覚え込む(頭・言葉で理屈を考えさせずに従わせて動かせる)といった印象が強い。
軍隊の徹底したしごき・罵倒(ハッパ)・強制などによって、若者の自我(わがままな自意識)を折れば『厳しい現実・理不尽な上下関係・つらい境遇に耐えられる大人』に育っていくという考え方がそこにあるが、そこには『フラットな人間関係に基づくコミュニケーション』『他者の自由や人間性を尊重する態度(敵もまた同じ人間であるという認識や攻撃性の抑制)』『上位者の命令ではなく自分の頭・心によって判断するという自律性』といった現代社会への適応の上で重要なものが学びにくい偏りもある。