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“ネット・読書・映画”をはじめとする頭を使うインドアな活動も好きですが、“登山・ランニング・ロングトレイル”といった身体を使うアウトドアの活動も好きです。 『社会科学・人文学』の知見をベースにしてますが、世の中や人間、精神、自然、ビジネスに対する興味関心をあれこれ満たせるようなコンテンツをちょこちょこと書いていきます。 毎日を楽しく有意義に過ごすための『楽観主義(オプティミズム)』と悲観主義に陥らない程度にリスクに備える『現実主義(リアリズム)』とのバランスを取っていきたいなと思っています。

自我の内にある“俗(欲)”と“聖(知)”の二元構造:ユングのエナンティオドロミア

現実の社会や人間関係に生きようとする時、誰もが自己と他者の意思であるとか利害であるとかが対立するように感じ、自分と他人との自意識や生活のせめぎ合い(折り合えない感覚)を意識するような『俗物』であることを免れない。

私が『俗物』である時、その幸福の要件は物理的・経済的な豊かさ、あるいは他者(社会)からの承認・評価などに委ねざるを得ず、それらを手に入れるための『欲望・情動』によって激しく興奮したりがっかり落胆してしまったりもする。

俗は成功と失敗、勝利と敗北、優越と劣等、善行と罪悪などの分かりやすい『自己と他者との差異』に執着することでもあるから、俗物になっている時にはエネルギッシュではあるが常に気持ちの平静と縁遠くなりやすい。他者との協力や対立の心理に拘泥することで、『思い通りにならない他者・集団力学』に対して冷静な気持ちでいづらくなったり、何とか良い結果を得ようとして自分の能力・努力の限界まで突っ走って燃え尽きてしまうこともある。

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“マナー違反・非常識”に社会的制裁を与える“第五権力としてのウェブ”の問題:ウェブの仕組みに対する無知・バカが許されない時代

2000年くらいまでのウェブには、『ユーザー間の言い争い・喧嘩沙汰』くらいはあっても『一人の人間の非常識(バカな行動)に対する集団バッシングとしての炎上』はなかった。炎上が可能になるためには『正論を掲げて攻撃する膨大な匿名ユーザー』がいなければならないが、その匿名ユーザーの声を反映させるためのSNSやツイッター、ブログなどの意見集約的な発言環境が本格的に整ってきたのがここ数年の流れだからである。

ウェブ上で『マナー違反・非常識な行動(バカな行動)』を自分の個人情報を漏らしながら自慢するというのは、警察署の前で自分の犯罪行為を大声で叫んでいるのと同じようなシュールな図式とも言える。だが残念ながら、『不特定多数の人(=社会世論)から見られるかもしれないウェブ上の自分(=自分の発言履歴の総体によるリアルな自己像の輪郭)』をイメージできないウェブの仕組みについて無知な人は大勢いる。

その人たち全てにウェブリテラシーを教育する機会を与えることは困難だが、『ウェブの仕組みについて無知である非常識な人』を一方的にバッシングして、罪に相応する以上の罰(リアルでの実害)を与えるというのはやはり行き過ぎた私刑になってくる。

仮にマナー違反を超えた法律違反であっても、『詳細な個人情報・鮮明な肖像をウェブ上に拡散されることの実害』は、罰金・禁固・懲役などの実刑判決に勝るとも劣らないものになり兼ねない。その不祥事による炎上の履歴がウェブ上に長期間にわたって残ってしまうことで、就職がしづらかったり過去の恥を消せなかったり、子供が親の失態でからかわれたりといった『その場だけで終わらない被害』が続くケースも想定される。

スーパーの店内で子供が商品のチーズをかじるも買わずに画像を『Twitter』にアップ 大炎上するも応戦中

子供がお店のチーズを食べてもそれを買い取らずに、逆に注意してきた人を口汚く罵るというのは確かに非常識で不愉快な行為ではあるが、『住んでいる世界が狭くて適切な学習の機会もなかった人たち,周囲に正しいマナーを教えてくれるまともな価値観の人も殆どいないヤンキー文化圏の若い男女(=ウェブ上でDQNと揶揄されるような人)』であれば、そもそもそういった反応しかできない成育歴・家庭環境・性格形成が根底にあることが少なくない。

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映画『スティーブ・ジョブズ』の感想

総合評価 73点/100点

世界最高のクリエイターやプレゼンテイターとして評価されるアップル創設者のスティーブ・ジョブズの人生を映画化した作品。特に、共同設立者スティーブ・ウォズニアックをはじめとする身近な仲間たちと一緒に、アップル社を小さなガレージで起業して軌道に乗せ、次第に大企業として成長していくまでのプロセス、その時々におけるジョブズの生々しい人間性や人間関係の対立を詳細に描いている。

アップル社が大きくなっていくに従って『スティーブ・ジョブズと旧友だった初期メンバーとの意識の差』が開いていくが、ジョブズは『現在のアップルに必要のない人材』だと見れば即座に首を切る冷淡さも併せ持つ。旧知の友人でスタートアップのメンバーであっても、技術者・管理者としての能力が低ければストックオプションの報酬を与えないまま退職にまで追い込み、旧友から怨みを買ったりもする。

スティーブ・ジョブズの成功の起点は、商売っ気のない趣味で基盤いじりを楽しむコンピューターオタクだったスティーブ・ウォズニアックの自作のコンピューターのマザーボードに、『個人用のパーソナルコンピューター(パソコン)の時代の到来』を予感したことだった。

こんなものを個人で買いたがる奴なんていないと自嘲するウォズニアックに、ジョブズは絶対にこれは売れるようになると断言し、暇をしている仲間を集めて『ガレージでの人力の量産体制』を何とか作り上げて納期に間に合わせた。2012年に世界最高の時価総額の企業となったアップルの第一歩は、こんな個人事業に毛が生えたような所から始まった。アメリカ企業史でも卓越した成功事例だとされる。

ジョブズは猛烈な行動力と営業力、説得力のあるプレゼンテーションと負けず嫌いの交渉によって、何の知名度も実績もなかったアップル社のパソコンを売り込んで融資を取り付ける事にも成功する。当時のコンピューター産業の巨人であったIBMがまだ独占していない『パソコンのニッチ市場』に深く食い込み、マッキントッシュでは目に見える形で直感的操作がしやすい革新的なGUIを開発した。

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映画『人類資金』の感想

総合評価 73点/100点

特定の民族や国家のためではなく、人類全体の公共的な利益と人々の公正な処遇・教育(能力開発)のために使われるべき旧日本軍が残した『M資金(Mankind Fand)』、このテーマは壮大であり興味を惹かれる。だが惜しいのは、世界観・人物相関の醸成とマネー経済(マネーゲーム)の掘り下げが不十分であるため、『M資金の運用・効果を通した可能性のリアリティ』が伝わってきにくいところである。

現在の資産価値に換算して約10兆円という金額も、『世界の理不尽な現状を変えるためのパワー』としてはインパクトが弱く、10兆円だとちょっとした多国籍企業の時価総額と変わらずAppleやGoogle、トヨタよりも総合的な資金力が弱い(アメリカの覇権主義に抵抗するというストーリーだが10兆円では米国の軍産複合体には全く歯が立たず世界を動かせそうにない)というイメージになってしまう。

旧日本軍が『本土決戦』に備えて日銀の地下倉庫に蓄えていた金塊を運び出した笹倉雅彦大尉は、『旧日本の体制の復活(対米のゲリラ活動など)』のためにこの金塊を使うことを拒絶して、目的外の金塊使用で祖国を裏切るつもりかと難詰する部下を刺殺する。一国家のメンツよりも大きな視点に立ち、人類全体の福利を増進させるための『M資金』の原資として旧軍部の金塊を盗み取った笹倉大尉だが、それ以降、その巨額資金は笹倉一族や米国のファンドにマネーゲームの道具として運用されることになってしまった。

子の笹倉暢彦(のぶひこ,仲代達矢)の代には、笹倉大尉の本来の理想は忘れられることとなり、日本の戦後復興や朝鮮戦争(米国の軍事)、高度経済成長、政財界の裏金、日米の経済関係などにM資金は流用されるようになった。しかし、孫の笹倉暢人(のぶと,香取慎吾)は、祖父の笹倉大尉の『M資金設立の原点(人類を間違った歴史の道から救い世界の人々を支援する)』に立ち返ることを目指し、米国のファンドが主導権を握って運用している時価総額10兆円の『M資金』を奪い取る計画を立てる。

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映画『R100』とその他の映画(『スター・トレック』『許されざる者』『エリジウム』など)の感想

総合評価 50点/100点

松本人志監督の『R100』は、昏睡状態に陥った妻(YOU)を看護しながら家具店で働いている真面目な片山貴文(大森南朋)が、秘密倶楽部の『ボンテージ』に入会してマゾヒズムの快楽に目覚めていくというナンセンスなストーリー展開になっている。

未体験リアルファンタジーエンタテインメントと銘打っているが、映像の色調の暗さや大森南朋の『快感を得ている顔の修正』に非現実感が微かに感じられる程度で、ファンタジーのジャンルに括れるかは微妙だし、SMがテーマだといってもエロティックな描写に重点があるわけでもない。

ただ冨永愛や佐藤江梨子、寺島しのぶ、大地真央などの出演陣がボンテージファッションを着せられているだけの映画とも言えるが、ガタイのいい白人のボンテージCEOが出て来て暴れる後半の戦闘シーンは一体前半のストーリーとどういった接続をしているのだろうか…。

『ストーリーの連続性』と『SMのテーマの必然性・奥行き』がない映画のため、ただ映像を眺めているだけであっけなく終わるという印象だが、実生活の中に突然暴力的にSの女王が闖入してきて嗜虐的な行為をするという『ボンテージ』のシステムの新しさを強引にリアルファンタジーとして解釈するしかない。

そもそも、100歳になるような高齢の監督が自分の世界観だけで突っ走って制作している『劇中劇』として『R100』は設定されており、映画の中の制作会議でも『R100のストーリーには前後のつながりとテーマの意味がないという舞台裏の話』が繰り返されているわけで、そのタイトルのまま、『100歳未満の鑑賞禁止のブラックナンセンス映画』である。

映画の感想は暫く書く時間がありませんでしたが、『R100』より前に見た映画の評価と寸評は以下になります。

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チャールズ・シュルツとジョン・レノンの言葉(アフォリズム)より

My life has no purpose, no direction, no aim, no meaning, and yet I’m happy. I can’t figure it out. What am I doing right?

私の人生には目的も方向性も目標も意味もない。それでもハッピーだ。自分でもなぜだか分からないが、私は知らないうちに何かいいことでもしているのかな?

I love mankind; it’s people I can’t stand.

人類(観念としての人)は愛しているんだけど、耐えられないのは人間(実在する自分の意思と対立する個々の人々)さ。

Charls Schultz

チャールズ・シュルツは、スヌーピーのキャラで知られる漫画『ピーナッツ』の作者で、こういったシニカルな風刺の効いた表現を漫画内で散りばめているらしい。

人類愛・博愛を語って争いや憎しみを否定する人たちは多いが、『人類』は愛せても、実際に意思や価値観を持ち、自らと対立する言葉を語る『人々』を個別に愛するのは簡単なことではない。人間世界に争いごとが絶えない所以でもあるが、『観念・理念』を愛せるように『個物・実際』を愛せる人は、ある種の無私の境地に到達した聖人に近いものかもしれない。

現代社会では『目的・目標を掲げて堅実に計画的に生きるような意味のある人生』が模範とされるし、それから外れた目的志向ではない場当たり的な人生に、劣等感や苦悩を抱えてしまう人も多い。

そういった直線的で勤勉な目的志向から軽妙に外れて、俺は自分でも分からないがなぜかいつもハッピーだと思えるおどけた感覚が面白いと思う。こんなに自分が幸せなのはきっと自分が正しいことをしているからではないか(俺は何か正しいことでもやったのか?その見返りできっと楽しいんだろう?)という、自己満足のご都合主義的な解釈も楽観主義のシュールさがあって良い。

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