「人生哲学・自己啓発」カテゴリーアーカイブ

自分と他人(友人知人)を比較する人と比較しない人はどこが違うのか?

他人との比較に一喜一憂するかは強いか弱いかではなく、『外向性・内向性の違い』と『標準的な生き方の準拠・交友範囲・他者との距離感』が関係する。他人に動じない人は内向的・メタ的で一人でやる事に終わりがない。

自分を他人と比べて落ち込んでしまう・・・どうすれば強い自分を持てるか

他人と比較し優劣を感じてやる気が出たり落ち込んだりという人は、ある意味では外向的な社交性・競争心や世間一般的な適応意欲・感受性が強い人でもあり、必ずしも悪いことではない。大人になっても友人関係のコミュニティを維持し、頻繁に近況を語り合ったりするような人は、ある程度は人との比較も気になりやすい。

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現代社会は男と女のどちらが生きやすいのか?:男と女の心理的・経済的な戦略の違いの傾向

男にも女にもそれぞれの人生の苦難があるが、一般論として経済的・精神的に自立できれば男女の差異は縮む。若い頃は平均的な女は存在に価値があるが、男は何か役に立つ事をして初めて価値が出る。

ホンネ告白で大激論!? 「今の時代、男と女、どっちが得?」

現代でも社会で働いて経済的に長く自立しやすい面では男が有利だが、人に愛されたい異性として求められたい承認欲求では、若い時期はどうしても女の方が有利だろう。だが男は自分の存在自体に性的価値が乏しいこと、腕力があることで、若い頃でも『性犯罪・襲撃を恐れず夜でも一人でも気楽に自由行動できる利点』もある。

平均的には、男の場合、自分自身で稼ぎ続けなければ人生は苦難と孤独にさらされやすく、女の場合、完全に自立できる金額を稼ぎ続けなくても、自分を愛し支えてくれる(多めに経済負担してくれる)パートナーを捕まえられれば、それなりの人生を歩きやすい。支え合うにしても、異性に求める貢献・役割の差異はでやすい。

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生命(個体)の継続を否定する『反出生主義』にどう反論できるか?、出産・人類の継続を理性・理屈で論理的に肯定できるか?

現代の先進国の少子化原因(選択的な出産回避)、自己否定的な悲観主義の一つとして、『虚無主義・優生思想』とも関係したデイヴィッド・ベネターらの『反出生主義(antinatalism)』が挙げられることがある。

http://0dt.org/vhem/argue.html

http://chaos2ch.com/archives/4750759.html

反出生主義とは『人生は快より苦が多く生まれてこなければ良かった・生まれなければ何も思い煩う主体がそもそもない』という通俗的な悲観主義・虚無的な厭世感を、『帰結主義・功利主義・確率的な不遇や絶望』から理論化した思想だが、この人間存在(生の意味)の否定の思想を『感情・常識』ではなく『理性・ロジック』で否定することができるかを少し考えてみたい。

反出生主義は『最後はみんな病気・老化・事件事故・自殺などで死んで連続的な意識・記憶は何も残らないという帰結主義』や『人生には確かに快(良いこと)もあるが初めから苦痛(悪いこと)や悪意・死を感じる主体が生み出されないことのほうが全体の不幸が減るという功利主義』から、自分以後の誕生・生命を否定的に見る思想である。

デイヴィッド・ベネターは人の人生に『快・喜びが存在すること』には確かにプラスの価値があるが、人間の存在・意識が初めからなければ『快・喜びが存在しなくても(不幸・無意味にならないために必死になり、快・喜び・意味を感じるための努力や解釈がなくても)別に構わない』だろうと語る。それはそうだ、人間が誰もいない世界では快・喜びを感じる主体、そのために努力や競争をする主体がいないのだからという当たり前の話ではある。

そして、人間の存在・意識がある以上は誰かの『苦痛・悪意・絶望などが存在すること』は絶対に避けられないとして、そういったマイナスの境遇や認識・価値観が一定ラインを超えると(せっかく生み出すことに意味があると信じて生み出されたのに)『生まれてこなければ良かった(初めから自我・知覚がなければ何も感じず何もない状態が続いた)』という反出生主義に転換して苦しんだり死んでしまうこと(誰かを傷つけてしまうこと)さえあるのだという。

さまざまな条件を背負った人間が次々に生まれる以上は、確率的に誰かが不幸・貧苦になったり差別・迫害・侮辱を受けたり、重い病気になったり自殺したり犯罪者(テロリスト)になったり冷酷な独裁者になったりする。初めから誰も生み出されなければそれらの人間の存在・意識にまつわる問題や不平不満のすべてが解決されるというのが反出生主義だが、それはそうだろうとしか言いようがないといえば言いようがない思想である。

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エマ・ワトソンの胸露出写真が気に入らないフェミニストとフェミニズムが目指すもの:『見られる客体としての女性』をどう考えるか

女性解放・女権拡張のフェミニズムは『女性の個人化・自己決定権の強化』として機能したが、『女性の平等化・女性の客体化(見られて評価される美)の否定』についてフェミニスト間の価値観・目標の対立もあるのだろう。

胸露出写真はフェミニズムに反さず、女優E・ワトソンが批判一蹴

エマ・ワトソンの胸露出写真が気に入らないフェミニストは、容姿・性的身体によって評価される『女性を見られる客体にする社会構造(財力ある男性のまなざし)』が男権的な女性のモノ化につながると解釈するのだろう。男女の一般的な差異として『身体・性の価値』があり、男女平等に至らない主因の一つではあるだろうが。

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『主人・嫁の言葉』は女性差別的なのか?、 ヴォーボワールの『第二の性』とジェンダー問題:原理主義の男女平等化はなぜ不可能なのか?

生物学的な性差のセクシャリティ自体が不平等で生殖を優先させる動物的側面を持つ。男女・イエ(部族)を超えた公平・尊重や暴力・強制の廃絶を求める近代人は倫理的だが非自然的でもあるのだろう。

「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限 川上未映子さん

『主人・嫁の言葉』が女性を独立した主体(個人)として見なしておらず、男性やイエの下位にある身分・役割を表象する男女差別的な言葉ではないかと言われれば、無論、歴史的に見て『女性が独立した経済・意識の主体として生きられた時代』は殆どなかったという意味においてそうだ。男性もまた近代以前は個人ではないが。

近代的な自由で平等な個人は、現実の歴史・生活・労働の実態に即せば、『啓蒙主義的・イデア的なフィクション』に過ぎない。近代以降の身分制や強制権力(共同体構成員に死を命令する事もできる公権力)を弱めてきた歴史は『社会的動物(生産的生殖的な構成員)としての上下・役割・身分の意識の解体的自由化』でもあった。

結婚制度・家族や国家・企業労働などにおいて、『主人・嫁のような関係性・上下関係・役割分担を示す概念』は男女に限らず上司と部下、為政者と被統治者、経営者(資本家)と労働者などさまざまな二項対立概念としてあるが、それらは現時点において『廃止すべき賞味期限の切れた時代遅れの概念』とまでは言えない。なぜか。

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現代における美貌の相対価値の下落とビジュアルで仕事したい女性の心の隙間:モデル勧誘で契約した人の27%に性的要求あり

今の女性はメイクや服装に気を使い綺麗な感じの人は増えたが、半端な美貌ではちやほやはされても食えない、『人並み以上の自己評価+モデルなど華やかな仕事への憧れ』がうまい話に反応するスキを生む。

モデル勧誘、契約者の27%に性的要求 内閣府調査

社会経験や対人交渉の経験が少ない10代?20代前半の女性を言葉巧みに騙し、契約内容の詳細を説明せず署名させ、コワモテの男で囲んで性的な仕事を強制するのは犯罪行為だが、ほどほどの美人で『性的要素のない外見の撮影だけ』で報酬が貰えるモデルの仕事はまずない。芸能人は『見た目+αの売り・コネ』を持つ人たちだ。

確かに地方の事務所・出版社などで地場企業の広告モデルだったりちょっとした冊子の撮影モデルを募集していることはあり、イベントや撮影会の自己開催のモデルとかの仕事はあるだろうが、それは『華やかな世界、専業で豊かな生活ができるモデル・芸能の仕事』とは遠い地味な世界だ。うまい話は向こうから転がってはこない。

なぜこんな馬鹿げた話に騙されるのか。ビジュアルの職業化・実利化は現代では非学力コミュニティでかなり人気のようだ。『若さと相まったほどほどの美のアドバンテージ(周囲が甘くてちやほや)』は自己の過大評価を生むが、現実(地味なバイトや恋愛)と潜在的な野心のギャップに褒め殺しの誘惑でつけ込まれる。

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