「人生哲学・自己啓発」カテゴリーアーカイブ

気にしても変わらないことは気にしないの処世訓。AKB48渡辺麻友が語る「まじめさの損得」と「まじめさの戦略」

気にしても変えられない事は気にしても意味がないが、それを『頭で理解する事』と『実際にできる事』には落差がある。“対人的な気にしすぎ”はこれだけ悩んだんだから許して・認めてのまじない的期待もある。

アナタのその息苦しさは“気にしすぎ症候群”が理由? 改善に役立つ5つのヒント

当事者の相手に伝わるはずもないところや直接的な問題と関わりのないところで、自分の内面だけで『悩む・迷う・苦しむ』というのは、『完全主義欲求の現れ』であると同時に『メンタルリハーサルによる自己弁護・自己補強』でもある。これだけ悩んだ、こんなに迷ったのだから、良い結果をの願掛けは多くの人がやっていたり。

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男と女の人生はどちらがつらいのか?:なぜ、男のほうが女よりも経済負担が大きくなりがちなのか。

性と財の交換+性欲の性差の進化論的経緯から男と女のつらさはフラットに比較できない。男の大半は稼げなければ大変、女の大半は求められないと大変。性や外見のみの価値は女性優位、男が同じフィールドで競争し対等な負担を求めてもなかなか追いつかない。

男はつらいよ!と思うこと1位は?

男女平等な時代なのに、男が女にデート代をおごる慣習が不平等という意見は合理的だが、『絶対に自分(男側)が全額をおごらされる状況』なら自業自得な面もある。生身の自分の魅力と釣り合わないか(金を負担しない自分に相手が何ら魅力を感じてないか)カネの評価軸に偏った外見だけの女性ばかりを自分が選んでいるだけ。

一般的に女性のほうが性的身体・外見の魅力では優位だが、『あきらかに自分と魅力がかけ離れている+自分に何の好意や関心もない女性』なのか『それなりに魅力が釣り合っている+相手も自分に好意や関心をもってくれている女性』なのかで付き合い・結婚の内容は全く異なる。これは男女を入れ替えても同じである。

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アルトゥール・ショーペンハウアーの言葉から見る“人間に対する人間の評価+世俗のカルチャー(俗悪の欲望系)に合わない自己像との向き合い方”

相手と醜い言い争いをしているとき、相手にされたことを自分も同じようにやり返したいという復讐心を示したときに、『相手と同じ低いレベルに落ちてしまうという認識』からそれをやめようとする人がいる。

自らに相応の知性・教養が備わっていると自負する者が、『酒・女・博打・あぶく銭のみが共通の話題のカルチャー』になっている集団社会や人間関係に投げ込まれたとき、『自分はこんな場所にいるべき存在じゃない・自分の内面や知性が認めてもらえない環境は苦しい』などと悲嘆することもあるだろう。

一般的な人間関係でも異性関係でも、いくら内面(人間性・知性)を磨いても、その内面を正しく評価できるだけの認識や感受性を持った相手に見てもらえなければ、自分が思うような評価は受けられないのが常である。

結果、世の大勢の人は『置かれた環境・周囲の人間・共通の話題・支配的なカルチャー』によって自分自身の知性・世界観を錬磨するモチベーションを失っていき、ある種の階層分化の中で自分を曲げないもの(場や相手に見合ったレベルの自己像を提示して打ち解けないもの)は適応を失っていくことにもなる。

人間の人間に対する評価の仕方(ある人の知性と認識の器の上限を越えて他者を見ることができないこと)について、人生哲学のアフォリズムを多く残したアルトゥール・ショーペンハウアーは次のように言う。

“誰でも己を越えて他人を見ることができない。すなわち人は誰しも自分自身と同じ大きさで他人を見ているのだ。それというのも人は自分の知性の尺度に従って他人を捉え、理解することができるだけだからである。ある人の知性が劣っていれば、他人のどんなに素晴らしい精神的素養、それが最高に優れている素質であっても、その人には何の働きかけもできないで終わるだろう。そんな人は優れた素質の持ち主にあってもその優れた人の個性の中の最も程度の低いもの、すなわち弱点や性格、気質上の欠陥以上のものを見ようとはしない。優れた人といえども、こんな連中にとっては単なる欠陥の寄せ集めに過ぎないということになる。”

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LGBTや同性愛が増加する現代社会とダイバーシティ:男性と女性の結合要因の変質

マイノリティの差別減とダイバーシティは自由社会の成熟の反映だが、“LGBT・同性婚の増加”は近代的なヘテロセクシャルや性自認・性役割の自明視・強制への反動の面もある。

AKB48メンバーがLGBTについて討論 峯岸みなみ「女の子と付き合える自分もいる」

男が女を好きになり女が男を好きになり、異性に対してのみ性的に興奮するヘテロセクシャルは、近代では『生産性・生殖性』を担保し人格・性欲の正常性を示唆する社会規範であった。だが先進国ではヘテロな男女の恋愛・婚姻が低迷、『男性の経済力・女性の性や癒しとの交換』が停滞して、異性愛の捉え方に個別差が生じた。

ジェンダーフリーや同性婚に反対の保守派は多いが、『男女結合のヘテロセクシャルの絶対視』に基づく。慣習・ジェンダーとしての『男が求める女らしさ(性愛・癒し・世話等)』と『女が求める男らしさ(経済力・保護・頼りがい等)』が、ヘテロ+男社会の恋愛・婚姻の秩序の必要性と性役割を支えるという認識に立っている。

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“現状がまずまず良い”なら結婚していれば結婚して良かったと思い、結婚していなければ結婚しなくて良かったと思うだろう。

結論から言えば、人間は自分が選んだ重要な人生の分岐点について、『自己正当化のバイアス』が強くかかる、自分が覚悟を決めて選んだ選択を間違っていたとは思いたくないものなのである。

なぜなら、人間の人生はF.ニーチェが言うように『一回性』のものであり、一度目の人生は結婚してみて、二度目の人生は独身を続けてみて、そして三度目の人生は二つを比較して冷静に決めてみよう(一度目と二度目とは違うタイプの相手にしてみよう)というような、あれもこれものお試しができない運命的な構造に取り込まれているからである。

結婚は人生の墓場なのか?

人生がただ一度切りのものであり、有限の時間に分節され老いてゆく定めにあるということ、この余りにも厳然たる事実こそが人の実存的なあり方を決定しているといっても過言ではない。

人が永遠に若くて魅力的でエネルギッシュでいられるなら、別にいつ結婚しても離婚してもそれは人生の重要な選択肢とはなりえない、真剣な努力や選択の機会は激減していくだろう。永遠でなくても1万年も2万年も若い時代における時間があるなら、10年でも50年でも結婚生活を何百回でも好きなだけやり直すことができるし、1人の相手とだけ1万年以上の生活時間を淡々と過ごすというのはどんなに素敵で魅力的な人でもちょっと難しいかもしれない。

『私の背負っている現実』は、ああすれば良かったこうすれば良かったと迷い悩みながらも、淡々と有限の時間軸の中を生きる私を前に進めて、『可能的な選択肢』を削り取っていく、最終的には生命の炎はゆらぎ弱まり吹き消されてしまう。

だから人は、自分が幸福な人生を歩んだという納得や実感が得たいのであれば、『私が選んだこの人生や相手、生き方は正しかったのだ』と思い込み信じ抜く他はない。自分の人生が悪くはなかったと思い込めない、信じ抜けない生は辛くて苦しくて惨めなものとなる。

自分の人生が虚しくて無意味だった(本当はこんなつまらない人生は嫌だったのに)と思いながら死んでいく、これは有限の存在である人間の最大の恐怖の一つと言っていいかもしれない。何度も他者を傷つけるような凶悪累犯者に転落していく人の多くは、この最大の恐怖と惨めさに自意識と人生のプロセスを絡め取られた人でもあるだろうし、犯罪を犯さなくても自分の今までの人生が晩年になって肯定できなくなるのは非常につらく逃れがたき重石となり得る。

F.ニーチェはこれを、何千回、何万回、無限に生まれ変わったとしても、私は今とまったく同じこの人生をやり直したい、私たち人間は今生きている人生に絶対的に『然り(これで良い・何度やり直せてもこの生き方が正解だ)』ということができるような人生を生きなければならないとした。

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学歴とは“個人の能力と意思の指標・社会階層・親の社会資本・教養文化(専門志向)”を想像させるアマルガム(融合)

学歴は『努力の証明書』というのは一面の事実を含むが、学力・学歴を巡る競争は厳密には遺伝(適性)・環境・意思における『機会の平等』を担保していないという意味(生まれてきた時点と育てられている過程においてスタートラインが大きく前後してしまうという意味)では、『本人の自己責任と努力の帰結』として片付ける事が難しいものでもある。

現代でこそ、学歴インフレによって大学の難易度を問わなければ、過半の人が『大卒』になれる可能性には開かれているが、本当の意味で『勉強・知的作業・知的生活(教養文化)・専門家の訓練への適性』のある人というのはかなり限られている。

■「学歴は努力の証明書」で福田萌が炎上 ネットは「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」と批判

多くの人は名目上は大卒であっても、本当の意味で知的な活動・研究や専門的なトレーニングが好きなわけでもなく、就職に有利であるからとか将来何らかの役に立ちそう(不利益にならなさそう)とかいう理由で進学しているわけだが、一定以上の学力があると推測できる大学の名前は『その場において求められている勉強・資格取得などに取り組める人材』の最低ラインを担保していると見なすことは可能だろう。

近代社会における学歴というか大学教育の主要な機能は『知識と数理の操作活用能力を試す形の社会的・職業的・知的なスクリーニング』であるが、端的には『高級官吏・専門家・研究者・教育者・企業の幹部候補・知識人(文化人)』としての適性が高いとみなせる人材を学生段階で効率的に選別するシステムとして大学教育は国家や企業、学校に利用されてきた歴史を持つ。

そのことが高学歴であるほど、一般に就職に有利(所得が高くなりやすい)と言われることにつながっているが、現代では高学歴ワーキングプアや就職した企業とのミスマッチ(早期離職後の就職難)、本人のメンタルヘルスの脆弱性などの問題もあって、傾向性としての高学歴優位は変わらないが(そのように官庁・企業・専門業種の序列的な階層構造が設計されていて社会上層の高学歴者の人的ネットワークがあるのだから当たり前だが)、個別事例では学歴があっても経済社会への適応性は高くないというケースも少なからずあるだろう。

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