結論から言えば、人間は自分が選んだ重要な人生の分岐点について、『自己正当化のバイアス』が強くかかる、自分が覚悟を決めて選んだ選択を間違っていたとは思いたくないものなのである。
なぜなら、人間の人生はF.ニーチェが言うように『一回性』のものであり、一度目の人生は結婚してみて、二度目の人生は独身を続けてみて、そして三度目の人生は二つを比較して冷静に決めてみよう(一度目と二度目とは違うタイプの相手にしてみよう)というような、あれもこれものお試しができない運命的な構造に取り込まれているからである。
結婚は人生の墓場なのか?
人生がただ一度切りのものであり、有限の時間に分節され老いてゆく定めにあるということ、この余りにも厳然たる事実こそが人の実存的なあり方を決定しているといっても過言ではない。
人が永遠に若くて魅力的でエネルギッシュでいられるなら、別にいつ結婚しても離婚してもそれは人生の重要な選択肢とはなりえない、真剣な努力や選択の機会は激減していくだろう。永遠でなくても1万年も2万年も若い時代における時間があるなら、10年でも50年でも結婚生活を何百回でも好きなだけやり直すことができるし、1人の相手とだけ1万年以上の生活時間を淡々と過ごすというのはどんなに素敵で魅力的な人でもちょっと難しいかもしれない。
『私の背負っている現実』は、ああすれば良かったこうすれば良かったと迷い悩みながらも、淡々と有限の時間軸の中を生きる私を前に進めて、『可能的な選択肢』を削り取っていく、最終的には生命の炎はゆらぎ弱まり吹き消されてしまう。
だから人は、自分が幸福な人生を歩んだという納得や実感が得たいのであれば、『私が選んだこの人生や相手、生き方は正しかったのだ』と思い込み信じ抜く他はない。自分の人生が悪くはなかったと思い込めない、信じ抜けない生は辛くて苦しくて惨めなものとなる。
自分の人生が虚しくて無意味だった(本当はこんなつまらない人生は嫌だったのに)と思いながら死んでいく、これは有限の存在である人間の最大の恐怖の一つと言っていいかもしれない。何度も他者を傷つけるような凶悪累犯者に転落していく人の多くは、この最大の恐怖と惨めさに自意識と人生のプロセスを絡め取られた人でもあるだろうし、犯罪を犯さなくても自分の今までの人生が晩年になって肯定できなくなるのは非常につらく逃れがたき重石となり得る。
F.ニーチェはこれを、何千回、何万回、無限に生まれ変わったとしても、私は今とまったく同じこの人生をやり直したい、私たち人間は今生きている人生に絶対的に『然り(これで良い・何度やり直せてもこの生き方が正解だ)』ということができるような人生を生きなければならないとした。
続きを読む “現状がまずまず良い”なら結婚していれば結婚して良かったと思い、結婚していなければ結婚しなくて良かったと思うだろう。 →