「学問・学術」カテゴリーアーカイブ

チャールズ・シュルツとジョン・レノンの言葉(アフォリズム)より

My life has no purpose, no direction, no aim, no meaning, and yet I’m happy. I can’t figure it out. What am I doing right?

私の人生には目的も方向性も目標も意味もない。それでもハッピーだ。自分でもなぜだか分からないが、私は知らないうちに何かいいことでもしているのかな?

I love mankind; it’s people I can’t stand.

人類(観念としての人)は愛しているんだけど、耐えられないのは人間(実在する自分の意思と対立する個々の人々)さ。

Charls Schultz

チャールズ・シュルツは、スヌーピーのキャラで知られる漫画『ピーナッツ』の作者で、こういったシニカルな風刺の効いた表現を漫画内で散りばめているらしい。

人類愛・博愛を語って争いや憎しみを否定する人たちは多いが、『人類』は愛せても、実際に意思や価値観を持ち、自らと対立する言葉を語る『人々』を個別に愛するのは簡単なことではない。人間世界に争いごとが絶えない所以でもあるが、『観念・理念』を愛せるように『個物・実際』を愛せる人は、ある種の無私の境地に到達した聖人に近いものかもしれない。

現代社会では『目的・目標を掲げて堅実に計画的に生きるような意味のある人生』が模範とされるし、それから外れた目的志向ではない場当たり的な人生に、劣等感や苦悩を抱えてしまう人も多い。

そういった直線的で勤勉な目的志向から軽妙に外れて、俺は自分でも分からないがなぜかいつもハッピーだと思えるおどけた感覚が面白いと思う。こんなに自分が幸せなのはきっと自分が正しいことをしているからではないか(俺は何か正しいことでもやったのか?その見返りできっと楽しいんだろう?)という、自己満足のご都合主義的な解釈も楽観主義のシュールさがあって良い。

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『人類の共通祖先が同一種である』と『複数の猿人・原人の種が同一種である』の違い:人類進化の仮説

このニュースにある人類学におけるヒトの進化プロセスの仮説について、日本人と外国人の遠い祖先が同一だったのか否かといった意見も見られますが、日本人とアジア人(中国人・朝鮮人)の違いどころか、モンゴロイドとコーカソイド(白人)とネグロイド(黒人)は同じ“ホモ・サピエンス・サピエンス”という霊長類の種ですから、当然、その共通祖先を遡っていけば同じ猿人、類人猿の種に行き着きます。

「ヒト祖先は同一種」の新説…進化過程見直しも

『人種(肌の色の違い)』という概念も現代の人類学では明確な境界線が引けない(黒色から白色への無限のバリエーションと混血がある)という判断になってきていますし、『民族・国民』という概念になるともはや生物学的な分類の意味あいは殆どないわけですから、日本人とどこかの外国人の祖先が異なる種であるはずはありません。生物学的には、外見が極めて類似しておりDNAの塩基配列が同じで、相互に交配(生殖)も可能な個体は同一種と見なされます。

『人類の共通祖先が同一種である』というのは、グルジア国立博物館や米ハーバード大の国際研究チームが出した『原人同一種の仮説』とは全く関係がないもので、進化論・遺伝子生物学の初期から自明の前提になっています(日本人と中国人とアメリカ人の祖先が共通ではなく生物学的な別種だったなどの仮説は検討の余地そのものがないとされます)。

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ソクラテス、ロバート・ハインラインの言葉(アフォリズム)より

Life contains but two tragedies. One is not to get your heart’s desire, the other is to get it.  Socrates

人生に二つの悲劇あり。一つは最も欲しいものを手に入れられないこと、もう一つはそれを手に入れてしまうことだ。  ソクラテス

真理探求の哲学の始祖とも称される古代ギリシアのソクラテスは、『産婆術』と呼ばれる反駁の対話法によって、何者も確実な知の基盤となる土台を築けていない事実(無知の知)を暴露しようとしたが、ソクラテスの人生は『問いのための問い』というある種非生産的な試みの繰り返しの中で『共同体の敵』と指弾されて潰えた。

ソクラテスが『心からの本当の欲望の対象』を手に入れられないのも悲劇だが、それを手にしてしまうこともまた悲劇だといったのは、ソクラテスが自身の手によって『著作』を一冊も書かなかったこと(ソクラテスの事跡・発言のすべてはプラトンやアリストテレス以下の弟子の記述に依拠する伝聞である)にも反映されている。

『手に入れてしまった知識(体系化・検証を待つだけの知識)』そのものを、恐らくソクラテスは当時の知識人の探究心を失わせる固定観念(正しさと決められたものを固守するだけのスタンス)として嫌ったのだろう。無知の知は現代科学にもつながっている『終わりなき真理探求・仮説志向の前提』だが、例えば、宇宙の摂理を矛盾なく示す大統一理論が完成したという安堵を得た時に、理論物理学者にとっての大統一理論はドクサとなって、それ以上の真理を求める興奮や感動は弱まる。

より日常的なレベルでいえば、憧れている理想の対象の価値は『手に入らないこと』によって何倍にもなるが、それが手に入らないもどかしさや欲求不満に苦しむ。しかし、いざ自分の所有する物になったり自分を受け容れる人になったりした時に、かつての理想の対象(遠い対象)が持っていた神聖・特殊の感覚は次第に失せて、当たり前の環境を構成するものになってしまう。

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『時間・空間とは何か』を巡る宇宙の謎:宇宙の未来を予測する仮説

物理学の究極の謎は、定量的研究の前提となっている『数値化された時間・空間』にある。1秒、1分、1時間などの数値化された時間というのは、僕たちにとってあまりにありふれた時間単位であるため、その実在性を改めて疑うことは滅多にないし、『時間が流れたり過ぎたりする感覚』は住民票(戸籍)・家族・社会制度があり、年齢や速度(移動時間)を意識するようになった人間にとっては当たり前の感覚とされる。

しかし、未開民族には自分の誕生日や年齢を知らない人も多いし、時間感覚も『時計で測れる時間』には依拠しておらず、何時何分というような概念を持っていない。太陽の動きと日々の生活リズムによって大まかな時間を知るだけであり、誰が年上で年下かくらいはわかるが、具体的に自分が何歳であるか相手と何歳の年齢差があるかなどについての認識は大雑把なことが多い。

公的な住民登録制度がなく誕生日を祝う習慣、同年齢の他者と学校に通学させる制度(企業に就職する仕組み)などがない自然と共生する社会、人口規模が極端に小さな集団に生きていれば、恐らく誰もが『自分の誕生日・年齢』についての認識は曖昧になるだろう。

常識的には、時間・季節の流れは『地球の自転・公転、地球と太陽の位置関係』によって規定されたり、1日を24時間、1年を365日と定めた定義に従う『時計の針の動き』によって時間を確認しているが、これは厳密には『時間』ではなく『一定速度を持った天体・針の運動』である。何らかの運動や変化を観察せずに『時間』を確認することはできないが、時間は決して止まることがない、あらゆる場所で絶えず流れているという仮定は強固なものとしてある。

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