“言語・数字”は知能の基盤だが『語彙・修辞・メタファー・長文』は子供に限らず大人も含め現代で減少傾向だ。大人でも非実利的な基礎教養や複雑な要旨の長文読解力は落ちた。
感情表現は「キモい」「ウザい」「ヤバい」3ワードのみ 子供たちのボキャ貧が深刻化
ボキャブラリー(語彙)の多さは読書・知識・文章構成の量によって裏打ちされるが、話し言葉だけでは『書き言葉・漢字表現・慣用句の語彙』は余り増えない。本・長文・詩を読まなくなり『話し言葉と書き言葉(エクリチュール)の差』が減った事もあり、多数派が言語表現の正確さ・複雑さを好まなくなった変化もある。
言語表現のレトリックは『言語による個性・心情の表現』で、自分の思考・感情をより精緻に、より印象的に表現したい動機を含む。だが今は技巧的なレトリックや想像力を求めるメタファー、ディープな自己表現は好まれない、『誰にでもわかる易しい表現・感覚の直な伝達や省略形・漢字を平仮名に開いた表記』が主流である。
叙情的・叙事的な文章にせよロジカルな論説にせよ、語彙の多さや文章表現の多様性を楽しむ人は『言語の意味・語感・語源などの想像力』が豊かで『言葉の官能・洗練に対する感度』がある。言葉だけでエキサイトできるタイプ。だが、ビジュアルでプラグマティックな現代は人文学・教養主義(ことばの官能)の衰退期でもある。
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人間社会には待遇の差を人々に納得させるヒエラルキー(階層序列)の仕組みがあるが、学歴は近代社会において機会の平等と公平な競争を建前とする『流動性のある擬似的身分・学習能力の指標』として機能した。
学歴に一番こだわっているのは年収800万円の層だった
学歴は確かに勉強さえできれば、家柄・経済力・コネを問わず取得できる『スタート地点の平等・公平な競争の結果』のように見えるが、明治期の大卒者の多くが余裕のある華族や素封家の出身であり、庶民の子が多少勉強できても経済事由から進学を断念したように『出身家庭の文化・教育・経済・価値』と切り離せない面もある。
学歴を気にするか否かは、所属しているコミュニティ・職業集団の平均学歴や話題の選択・価値観・学閥の有無(上位者の学歴へのこだわり)と相関する。年収800万前後の上場企業の大卒サラリーマンは『高学歴者の多い環境・出身大学に関する話題や人脈』の要因によって過去の学歴を気にさせられる機会が多いためだろう。
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学歴と収入の相関。日本は25~34歳の高卒の賃金を100とした場合、同年齢の大卒の賃金は144(2012年)になるという。大卒給与は高卒の約1.4倍だが国際比較では日本の大卒は経済価値は低い。アメリカは170、アイルランドは180、チリは261で日本は大学進学率の高さ・実質学力の問題で割り引かれる。
“学歴”を得ることに価値はあるか?:職業・所得・教養・文化と学歴との相関
大卒者の経済価値の高さを規定する要因は、『大学進学率の低さの希少性(南米・アフリカ・東南アジアなど)・大学教育の充実の実質性(アメリカやイギリスなど)・大卒者でないと就職先に困る産業構造の選別性(アメリカやアイルランドなど)』であると言われている。ちなみに、学歴社会とされる『韓国』は、大卒者の一般価値が低い社会である。
あれほど受験競争が過熱する韓国でなぜ大卒者の平均賃金が130程度で高卒者とあまり変わらないのかの理由はシンプルだ。大学に行かないと就職先がない韓国では大学進学率が高くなり、日本と同じく学歴バブルが起こっていて『大卒者間の競争』が激しくなった。韓国内の有力企業は数が少なく、並の大卒では就職が困難だ。
日本も韓国と同じで大学を出たからといって、特別に優秀ではなく専門性もない並の大卒では待遇の良い大企業になかなか就職できないという大卒者間の競争激化の構造がある。日韓の大卒社員の初任給は、平均30万を超えるアメリカと比較して相当低い、国際競争で不利な位置づけにある。名目上の大卒の経済価値は落ちやすい。
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学歴をお金に換算する意味での経済価値はかつてより低下したが、大卒の平均給与は高卒・中卒よりは常に高い。中卒でも実業家で成功、一流大卒でも無職など個人差はあるが、平均では学歴による所得・文化・価値・人脈の差はかなり出てくる。
学歴は大切? 大切じゃない?
学歴による差は、大卒が中卒・高卒より優れているという意味では必ずしもない。結局、生まれ育ちや興味関心、生き方、好む話題などによって、自分に合った仲間関係や文化圏というものがでてくるという話だろう。『学歴は無意味・高学歴者は無能』と言われるケースも、ガテン系・飲食系・飛び込み営業などに近いような『知識・教養の生かせない職場や関係』でわだかまっていたりする。
学歴の優位やメリットとしては、医師や法曹、薬剤師、教員などをはじめ『特定学部の大卒者でないと取れない資格・就けない職種』というものがあるという事だろう。確かに該当学部の大卒者でなくても有資格者と同等の知識・技術を独学や実地で身につけ、職務をこなせる人もいるかもしれないが無資格医等は違法行為である。
学歴というか学問・教養のメリットでありデメリットでもあるのは、社会や政治経済等の仕組みを理論的な知識やモデルを通して把握できることで、学問・教養がなければ『難しい事はよく分からない・真面目な話は面白くない・仕組みの中に組み込まれるだけ』のスタンス(余計な事に悩まず動けるメリットでもある)になりやすい。
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今、満喫している楽しみの一つに、深夜・早朝の約60分間のウォーキングの時間に、AmazonのAudibleで今は亡き吉本隆明(1924~2012)の政治経済や文学と詩・人生論・宗教論などの広範なテーマを巡る講演を聴くことがある。
吉本隆明の著作そのものは、代表的な作品・思想以外は、晩年のものを中心に読みやすい時代批評や人生哲学を読んでいるが、吉本の文学論・近代詩論にはほとんど接していないのでそういったジャンルを新鮮味があるし、フランクなくだけたおっちゃんのノリで様々なテーマを持論を踏まえて楽しそうに語る吉本の講演は『今この世にいない死者の声』という意味で奇妙な時間軸の捻じれを味わうこともできる。
曽野綾子のキリスト教ベースの人生哲学とか、田中芳樹の『銀河英雄伝説』とか、芥川龍之介や夏目漱石の小説なんかもたまに聴いているのだが、音質が悪くて語りが必ずしも上手くない吉本隆明の講演が一番面白くてあれこれ考える材料になる。
ウォーキングしながらスマホで吉本隆明の『宗教としての天皇制』『国家・家・大衆・知識人』『親鸞について』などを聴いている人は、今の日本でどれくらいいるのだろうか、深夜1時などの同時間帯では恐らく僕一人ではないかと思いながら、暗く静けさに満ちた街灯が照らす夜道を5キロ、10キロと淡々と歩き続け、適当な所で見切りをつけて復路を辿る。
中には音が割れていたり小さすぎて聴こえないものもあるのだが、大学の講義・各地の講演会などで録音された年月を見ると1960年代~1980年代というかなり古いものであり、カセットテープに録音していたものをデジタル化したと思われるから、こういった『音質の悪さ・参加者の咳払いや不規則発言・室外の車などの騒音』も時代のライブ感として感じることができる。
吉本隆明は秩序だった講演の語りが上手いわけではないが、流暢ではないことが逆に『生身の語り(下書きした原稿の流れなどに強く頼らない即興的な語り)』の味わいを醸し出している。
続きを読む 吉本隆明の講演集の音源:死んだ思想家の語りを聴き終わるまでAudibleが解約できない… →
大学生は本を読まない?
読書の是非や効果を抜きにして『大多数の人はほとんど本を読まず家に大して本がない(そして読まないまま人生を終わる)』のが現実ではある。直接カネにならない知識・教養・思索に対する欲望の個人差は大きい
文学にしろ小説にしろ思想哲学・学術にしろ、『基礎教養の共有』があるかないかで『話題の広さ・深さ』は変わるが、世間一般では『経験主義的な雑談・他人に対する興味や噂(誰かれがどうしたこうした)』が話題の中心だから、読まなくても文化圏によって不都合はない。知識・教養抜きの知的なセンスや話術の巧拙もある。
読書やエクリチュール(書かれたものの世界)とは何かを一義的に語り尽くすことは難しいが、読書は突き詰めれば『人文学的な素養・教養』と『人格形成的な知性研鑽』と『知的好奇心の充足』と『実利的な知識・情報』の側面に分類することができ、人文学的な読書の本質は知的主体のビルドゥングス(継続的建設)に他ならない。
『読書のある世界・人生』と『読書のない世界・人生』の違いは、『知覚(五感)・生理に依拠する動物的・社会的な生の外側』を拡大していけるかどうかで、文字の世界の書物の探索とは『知覚・生理・社会に決定され尽くさない自己の建設』の側面がある。『自由意志や自己研鑽(知・徳・利の合一)・共有知継承』の利もある。
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