○うつ病も内因性か心因性かで薬物療法の有効性に差が出るが、近年の米国の統計研究では抗うつ薬はリスク対効果で有益性が高くないとの結果もある。胃薬が精神疾患に効いた前例ではスルピリドもある。
岡山理科大の研究でうつ病に効果があるとされるのは、一般的な胃薬である『テプレノン(セルベックス)』で、本当にうつ病改善効果があるのであれば抗うつ薬より格段に安全性の高い処方になるとは言える。テプレノンは胃酸の防御因子増強薬でスルピリドも交感神経抑制で似た働きがあるのかも。
○うつ病も内因性か心因性かで薬物療法の有効性に差が出るが、近年の米国の統計研究では抗うつ薬はリスク対効果で有益性が高くないとの結果もある。胃薬が精神疾患に効いた前例ではスルピリドもある。
岡山理科大の研究でうつ病に効果があるとされるのは、一般的な胃薬である『テプレノン(セルベックス)』で、本当にうつ病改善効果があるのであれば抗うつ薬より格段に安全性の高い処方になるとは言える。テプレノンは胃酸の防御因子増強薬でスルピリドも交感神経抑制で似た働きがあるのかも。
○顔も性格も経済力も健康も重要だろうが『大勢の異性のカタログの中から任意の一人を自由に選ぶこと』は普通できない。『知り合った範囲でどこかが良いと思って選んだ相手』は概ね妥当な相手で、感性・色欲の選り好みは切りがない。
身分制度(家格の釣り合い)を前提としたお見合い結婚・取り決め婚が多かった時代は個人間の総合的魅力のバランスが崩れた夫婦も多いが、恋愛・結婚が自由市場化される度合いが強まると社会的バランス理論にあるように『個人間の総合的魅力の釣り合い』が取れて、似た者同士や相互補償(長短持ち寄りの相殺)が増える。
結婚相手の何が重要かの個人差はあるが『自分が妥協して結婚してあげた(だから相手が下手に出て尽くすのが当たり前)という意識』があるほど、夫婦関係や結婚生活は主観的に面白くなくて不平不満が多いものになりやすい。良くも悪くも『自分の選択(自分の選んだ相手・人生)に納得と受容ができる人』が幸せではある。
現代社会で生きやすいか生きづらいかの一つの分岐点は『ナチュラルな自己洗脳のセンス』で、『自分の現状と選択に納得・受容ができない人』は客観的に見てまずまず幸せで豊かな状態であっても、主観的に生きづらさと面白みのなさ(不平不満)に苦しみ続けやすい。納得できる状況に近づける努力や工夫ができるかも鍵になる。
○中国も農業から工業・情報産業に産業構造が転換し、子供に教育投資が必要な都市部居住・サラリーマンの雇用が急増している。農村・都市の格差が大きいが、人口・家族が多くて貧しい環境を中国人が受容しなくなりつつある。
日本人だけじゃない! 中国人も「子どもを産みたがらなくなっている」
中国の都市部、特に香港の女性特殊出生率は日本よりも低く、物価・生活コストも少子化率も世界最高水準になっている。シンガポールや韓国、台湾といった教育・経済が発展して競争も激しいアジアの国の出生率も日本より低く、アジアも経済成長した国ほどかつてのような農業国的な大家族・人口増加はない。
〇中二病は『自分に実現不可能な妄想とその言語化態度化』や『井の中の蛙の価値観表出』だが『根拠なき自己特別視・主役視の差異化欲求』を自意識過剰の悪目立ちでこじらせるのは人間的でもある。
やしろあずきの調査―― 中二病って本当に中学2年生で発症するの? 現役中学教師に聞いてみた!
『根拠なき自己特別視・主役視の差異化欲求』を仮想的・創作的な物語や概念、絵図として他者も一緒に共感できる形で表現できる人であれば、作家・思想家・漫画家(イラストレーター)のような職業に特化した適性になることもある。『現実では無理と分かっての妄想・構想』でなければ妄想家・大言壮語で終わるだけだろうが。
小説にせよ漫画・アニメにせよ、あらすじや登場人物、コミュニケーション、世界観の多くは、客観的な現実世界においては『中二病的・非現実的・幼稚』だが、『一定以上の数の人の妄想的な自己特別視・主役視・理想・感動や興奮』と共鳴する空想・構想・主題の物語化ができれば商業価値を同時に生み出すことが可能となる。
精神分析家の故・小此木啓吾氏が随分前に『自己愛人間』を書き、現代人の自意識は社会・他者から離れ自己愛化したと指摘したが、SNS・プリクラの『自撮りのセルフィー文化』はその先鋭でもある。
スマホのカメラが高機能化して撮影後の修正も簡単になったことで、インスタグラムには『モデル・芸能人のようにばっちり決まった一般人』や『仲間と盛り上がる場面を切り取ったカット』が溢れている。自撮りのためのカメラ性能の向上で、『自分が満足のいく自己像・楽しい場面の撮影の公開と蓄積』は自己愛的な快楽を煽る。
近代化による『経済成熟・自由主義・個人主義・市場原理(資本主義)・男女平等』の進展は、個人の幸福追求と他者との比較競争を煽ることによって、動物的な生存・生殖の本能やコミュニティの互助・平等の意識を衰退させ、半ば必然的に高度経済成長期後の少子化トレンドと階層社会の固定化を生み出す。
昭和中期までの人口が増加を続けていた時代というのは、個人やその人生が長期に所属する『家族親族・地域・会社(役所)・社会・国家』の共同体(コミュニティ)にすっぽりと埋め込まれていた時代である。
その時代、人生は『自由意思や自己責任』で個人がそれぞれに選択するものというよりは、『同調圧力・社会規範(所属階層の常識)』によって就職・結婚・出産など『社会や世間でやるべきとされていることをやっていくプロセス(やるべきことをやらない人への偏見・差別が強く大半は道を外れられないし周囲に干渉される)』に近かった。
結婚のかなりの部分は『適齢期・世間体・家格』の関係したお見合いであり、出産は概ね女性の義務に近いもの(女性が一人で自立して結婚も出産もせず生きることは現実的にも差別の圧力的にもほぼ不可能で、生活を庇護してくれる旦那を見つけられるかが生きるか死ぬかに近い問題)だった。
一方、男性はハードな仕事や戦争で死ぬことも少なくない『労働力・兵隊』として社会システムを維持する部品に近く、女性だけが苦労や我慢を強いられていたわけではない。高度経済成長期の会社の働かせ方は、現代のブラック企業を凌駕するものである、炭鉱・港湾・工場・土木建築のハードな肉体労働では頻繁に労災が起こり事故で死人が出たり深刻な身体障害を負うことは珍しくなかった。