「倫理学」カテゴリーアーカイブ

恋愛で特定の異性を魅力的だとして選ぶことは優生思想なのか?、 景気指標が良くても所得が上がらないディスインフレの問題!

優生思想の議論についての感想を書いてみる。「異性の好み・選択(好き嫌い・どうでもいい)」も優生思想に入るのかという事だが、個人の内的な優生思想の傾向ではあるかもしれないが、狭義の優生思想は「社会・民族単位での遺伝子改良運動」なので個人的な他者の好みの序列化・切り捨ては、おそらく優生思想とまでは言えない。

優生学(eugenics)というのは、目的的な生命の選別であり、辞書的定義においても「フランシス・ゴルトンを始祖として遺伝学的に人類をより良くすることを目的として起こった応用生物科学」とあり、どちらかというと魅力・性選択よりも「健康・機能性・病気・障害(機能喪失)の区別」に歴史的に重点があった。

優生学は政策的・目的的な社会生命工学であり、優生学を信奉する個人の心理は「あの人よりもこの人が魅力がある(美しい・格好いい・優しい・裕福だから好き)」というよりも、「人類・社会を改良するために劣ったと見なす非機能的・病的奇形的な遺伝子発現」をできるだけシステムで削減・断種したいということである。

個人の好き嫌いも「優生思想と合致する部分(健康・美しい・高い社会適応度が好き)」があるというのは、事実の一面だが、これは進化論の「自然選択(自然淘汰)・性選択」の話に近い。優生思想の基盤に自然界における生存戦略・生殖戦略のモデルはあるが、優生思想とは「自然の生存・生殖の展開」も許さない思想である。

個人がAさんよりBさんの方が好きで、Aさんを無視したり切り捨てたというのは、優生思想というより「個人の適応戦略・選好性・恋愛や婚姻の一般ルール・メディアの影響」の話かも。Aさんを遺伝的に劣っているから社会改良・断種のため切り捨てたわけではない。社会共通の美や魅力の大まかなものさしも優生的な面はある。

優生思想の定義やニュアンスをどこまで広げるかによるが、現時点では優生思想は「社会的政治的な差別・排除」や「意識的な生命の選別(抹殺・断種)」を必要条件としている。個人の選択でも「あんな遺伝的に劣った人と交際をしたくない・社会やみんなのためにもあの遺伝子は断種すべきと思う」というなら優生主義者だが。

個人の選好や選択によって、ある人を無視したり排除したりしたとしても、「その人に対する積極的な悪意や加害の意識はない」かつ「自分以外の誰かと付き合ったり子孫を残したりするのは自由(自分だけが受け入れられない)」というレベルは優生主義者とはならない。優生主義者は「社会全体での生存・生殖の否定」を唱える。

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人間はなぜ働くのか?:労働の起源と近代の仕事の変化からの考察、考えすぎる現代人はなぜ子供を産まなくなってきたのか?

○人類の労働の起源は「狩猟採集・農耕牧畜・手工業」にあるが、財の蓄積によって組織・身分・官吏が生まれ労働は自然な生存の必要から離れ、人の迷い・悩み・自意識と関わり始めた。

なぜ人は働くのか?――1位「生きていくため」 3人に1人は仕事が「嫌い」と回答 (http://mixi.at/agznDSR、10月28日)

原始時代の人間にとっての労働は正に動物としての生存本能と直結しており、「今日働かなければ食べるものがない自然界」では、狩猟採集をするしかない。常に飢えとの戦いで他にやる事もない(食料探しに奔走しても20代で死んだ)。前近代の人間も身分制と労働が結合していて「なぜ人は働くのか?」の疑問は弱かった。

人間の労働意識に決定的な転機をもたらしたのは「貨幣経済・近代化・技術革新・生活水準の向上と学歴競争・庶民の精神的貴族主義」だが、人間が磐石な生産基盤を持つ文明社会と身分・階級・私有財を構築し始めた辺りから、人は「自然界で家族・部族の単位で食べ物を探す労働」から離れ、誰かの下で働く労働にシフトした。

近代化とは「国民意識・軍事・金銭・技術」が急速に発達したり肥大したりする変化だが、近代化と貨幣経済によって農業経済の「家族単位で食べ物を作ったり取ったりするための労働」から「上下関係のある組織(所属する会社組織にも権威・収入・信用などの格差がある)に雇われてお金を稼ぐための労働」にシフトした。

人が働く理由の根本は「生きるため」と「人(所属集団・社会)に認められるため」だが、現代と近代以前では産業構造の転換もあって同じ「働く行為」でもその目的と中身が変わってきた。第一次産業や第二次産業の「モノと向き合う仕事」は減り、年功主義の形式的平等も減り、個人単位の適性・能力・意欲の差が大きくなった。

なぜ働くのかの理由は「生きるため・お金を稼ぐため」という即物的な理由もあるが、「人に認められるため・日常の居場所や共同体を作るため・誰かの役に立ち喜ばせるため(自己の必要性の自覚)」という心情的な理由もあるだろう。「やりたい事や長所で稼いで生きるため・権力や財力を得るため」など野心的な理由もある。

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とんねるず・石橋貴明の「保毛尾田保毛男のネタ」は現代のお笑いとしては倫理・差別の問題が多くなった

昔は松田優作や松方弘樹等は徹子の部屋でタバコを吹かして話し、深夜にAV女優を集め脱がせる番組もあったが、『とんねるず的な外見特徴を揶揄する笑い』が現代の倫理・差別のコードに抵触しやすくなっただけである。

とんねるず「保毛尾田保毛男」批判にフジ社長が謝罪(http://mixi.at/aeZgOUY)

昔のお笑いは、とんねるずに限らず、ドリフターズでも、軽度知的障害(当時は知恵遅れでただ頭が悪い認識)や不細工、田舎者、貧乏人や乞食まで含めて『能力・魅力・洗練度・知性が落ちる冴えないマイノリティ』をバカにしても良いキャラクターに設定していた。いじめや差別はある種の笑いを伴うというのは事実としてある。

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『週刊少年ジャンプ』のお色気表現の是非の議論と男女の身体の非対称性・人類のエロス論

弁護士の太田啓子さんの批判のポイントは『女性の水着が脱げそうな描写』より『嫌がっている女性の裸を見たがる男性心理』にあるようだが、少年誌のお色気描写の規制論も『絵柄・行為』だけでなく『心理・ジェンダー』まで含めると複雑になりすぎる。

江川達也氏が「少年ジャンプに抗議を」に真っ向反論

そもそも論では、子供向けの実写でも漫画でも性描写で問題になるのは『女性キャラの露出度』で、『男が女の身体を見て興奮するベクトル』である。少年誌では男性キャラが意図的に脱がせたり行為したりの表現はしづらいので、偶然に水着が脱げるとかこけて密着する、下着が見える等で一方的に喜ぶ表現になりやすい。

批判のポイントは、広義の少年誌におけるお色気描写への反対意見だが、『同意のない女性の水着姿・裸体を男性がまなざして一方的に喜ぶ(漫画の女性キャラはきゃーきゃー嫌がっているのに見たがる)』という男性主義的な性欲充足を前提にした描き方へのジェンダー的抗議かもしれないが、他の描き方は別の問題が生じそうだ。

男女平等主義が普及しても、男性の身体と女性の身体の扱い方はフラットにならない部分が残る。

パブリックな場で言葉にできない女性の性的部位のタブー度は、女性が男社会に保護されているとも言えるし、逆に男社会によって所有・管理されているとも言える。ラディカルフェミニストやろくでなし子さんのような思想では『私の性器は猥褻物ではない』と確信犯で公の場に公開・言及しようとするが、賛同者は極めて少ない。

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サントリーのCMに『下品・下ネタ』のクレーム:性的に潔癖になる現代社会とフィジカルな性愛の嫌悪

精神分析的な性事象・性欲刺激の連想には切りがない。未来の人類は健全さを増して『フィジカルな性交渉・羞恥や卑猥の興奮・裸体の性的観賞』を動物的な野蛮行為として敬遠するのかもしれないが、性嫌悪的な感受性やクレームは過去よりも増えている。

「お酒飲みながらしゃぶるのがうみゃあで」 サントリー「コックゥ~ん!」CMに「下品」「下ネタ」と批判相次ぎ公開中止へ

SF的な小説・映画には、物理的なセックスが過去の人類の動物的行為として衰退、不衛生・悪徳・野蛮として敬遠・規制されるプロットは多い。S.スタローンの『デモリションマン』、村田沙耶香の『消滅世界』、森博嗣の『彼女は一人で歩くのか,Wシリーズ』などをふと思い浮かべたが、現代の表の道徳・教育は性嫌悪的か。

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映画『GIVER 記憶を注ぐ者』の感想

総合評価 85点/100点

すべての人間が幸福に満たされ、すべての人間の悪意が根絶させられたユートピア(理想郷)は実現可能かという『ユートピア論』は古代から考想されてきた。

古代ギリシアではプラトンが哲人政治による賢者独裁を唱え、古代ローマではユリウス・カエサルが世界をローマ化して法の支配に従わせようとし、古代中国では儒教的な君主・士大夫の徳治主義(王道政治)が勧められ、中世ヨーロッパではキリスト教信仰を背景に千年王国が夢想され、ムスリム圏ではアラーに完全に帰依することによって天国を夢見たが、いずれも支配階層の限定的なユートピアの陽炎を生じさせただけだった。

近代のユートピア思想は、史的唯物論の必然性と科学的社会主義の合理性を自称する『マルクス=レーニン主義』が、共産党宣言・共産主義革命によって大衆(労働者)のためのユートピアを建設しようとした。だが、人間本性に逆らった計画経済・結果平等の理想は反対に『共産党独裁による収容所国家・思想統制・生産力停滞の悲劇』を招き、貧しい平等と思想・表現の自由のない味気ない窮屈な世界を作り出しただけだった。

『GIVER 記憶を注ぐ者』は近未来に誕生した“コミュニティ”と呼ばれる理想的なユートピアにまつわる思考実験的な映画だが、物語のコンセプトや理想の背後にある犠牲を描く世界観は貴志祐介のファンタジー小説『新世界より』にも似ている。

ユートピアであるコミュニティには、飢餓も貧困も格差も苦痛もなく、個人間の差異と自由意思の選択肢を最大限に排除した『環境管理・社会慣習に無意識に従う均質的な個人』が完全平等主義の世界で何の不満も持たずに暮らしている。

人間はその本能や感情、自由意思に従えば、不完全な世界を作って必ず競争・戦争・犯罪・身内贔屓・怨恨・嫉妬・性犯罪などの問題を引き起こすため、人類は過去の人類の感情を伴うすべての歴史を抹消して、義務付けられた薬物服用で感情を抑制している。

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