「宗教・思想」カテゴリーアーカイブ

中絶は、他者や法から非難されるべき罪悪か?:普遍主義とパーソン論から考える

僕はキリシタン(カトリシズム信奉者)でも生命至上主義でもなく、人工妊娠中絶(堕胎)に関しては『パーソン論に基づく合理的な容認論』の立場を取るので、中絶を社会的・倫理的な罪悪として非難することはなく、そこに至る他人の個人的な経緯や理由にも関心はない。

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自分が男性であるため、自分が妊娠して中絶をする当事者にはなり得ないこともあるが、自分が養育のお金を出すわけでも子を責任もって育てるわけでもない『他人である女性の妊娠・出産』に関して、何らかの強制力のある規範・善悪(罪悪感)を押し付けたいという感情や判断を初めから持っていないというのに近いかもしれない。

出産するかしないかは、子を宿す母体を持つ女性(結婚して共に子の扶養義務を負う覚悟と能力のある相手の男性の意見も考慮すべきだが)の自己決定権に委ねるべきである。

それは、実際に自分の身体で妊娠して出産する女性本人以上(本人と密接な関係性にある相手・親族など以上)に『産むべきか産まないべきかについて真剣に悩み考えられる主体』はいるはずもないからである。

なぜ中絶を強制的に禁止すべきでないのか、『望まれずに嫌々ながら産みだされる子供』は、その母親の出産時の心理を知ってしまえば自らの出自に相当に重たい否定感情や罪悪感を背負いこむことになるからである。

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IS(イスラム国)はなぜ“火あぶりの処刑・世界文化遺産パルミラ遺跡の爆破”を行うのか?:反欧米の宗教原理主義

イスラム国(IS)は欧米の進歩主義的歴史観に由来する『近代の個人主義的なヒューマニズム(人権・自由・民主)+資本主義(市場・産業の競争)』を否定することで、復古主義の自集団をアイデンティファイしている。

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なぜイスラム国(IS)は人の生命・人権や男女の平等、平和主義、世界遺産(文化的歴史的価値)を尊重せず、日米欧のヒューマンな近代国家の価値全般を野蛮に見える方法・思想で蹂躙するのか。『反欧米勢力』でありながら経済・文明・人道の水準で劣る立場を、それを目指さない思想的宣言で逆転させる作為的演出でもある。

イスラム国(IS)は『経済がどれだけ豊かか・技術がどれだけ進んでいるか・人権がどれだけ守られているか・男女がどれだけ平等か・個人がどれくらい幸福か』という、欧米諸国にはじめから及ばないと分かっている『近代的なヒューマニズムの価値基準』を頭から否定し『勝てない近代的進歩主義の土俵』から下りているのだ。

『物質文明・人権思想・技術主義の近代化』を競う土俵(フィールド)で戦う限り、ISは欧米諸国よりも『人権・男女平等が守られていない貧しい後進国』であるという欧米が作った価値基準から指弾され欧米を追いかけたり支援を受けたりする立ち位置に立たされる。反欧米を徹底すれば進歩より昔が良かったの復古主義が勝る。

『イスラームの原点の教えや聖典にどれだけ忠実な国・社会であるか(IS指導層が考える原理主義・復古主義への接近度)』という欧米とは異なる価値基準を敢えて打ち出す事で、ISは『背教・物質主義(堕落)の欧米諸国』より優位な位置に自己をアイデンティファイできる。中世的な火あぶりの処刑も『応報の正義』となる。

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ムスリム(イスラム教徒)はなぜ豚肉を食べてはいけないのか?:生活規範・帰依の乏しい日本の宗教文化

ムスリムがなぜ豚肉を食べてはいけないのかに『合理的な理由』はない。ムハンマドが天使ジブリールから聞いた神の言葉に『神が豚肉を食べてはならない』という規範があるから守るというだけである。

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イスラームの文化・生活規範の強度というのは、日本人の宗教感覚で最も分かりにくいものの一つであり、日本人は反射的に宗教の聖典にあるような物語を『人間が作った話』という風に解釈するので心から信じることができないというのがある。イスラームが意味する『帰依』も殆どの日本人には感覚的に分からない信仰心である。

日本は世界でも有数の『帰依しないという意味での無神論者の国』であり、日本人の多くは『科学的世界観あるいは人間中心主義から離れない人々』である。帰依というのは神中心の世界観に我が身を委ねる、神が本当に存在するものとしてその言葉・命令を至上のものとする生活を受け容れるという事だが、日本人は一般に『帰依』まではしない。

確かに日本人も神社に初詣をしてお賽銭を投げるし、寺院で法要を営み墓を立て説法を聞いたりするのだけれど、神様仏様を中心とした世界観に帰依し戒律を守るという信仰のあり方ではない。寺社にお参りして『お願い事をどうか聞いてください・助けてください』と神仏に頼むが、神仏側が人間に命令する事はまず意識されない。

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『一般のイスラム教』と『IS(イスラム国)のテロリズム』を同一視することの間違いと危険性:多様な個人と集団帰属を分離する近代精神の成熟

『イスラム教』と『IS(イスラム国)の過激派勢力』は異なり、ISに参加していないムスリムは危険なテロリストでも武装勢力でもないというのは常識的な認識として日本人も持っておく必要がある。

IS(イスラム国)と無関係な在日の一般ムスリムに、悪意や復讐心に基づく差別・迫害・嫌がらせを行うことは犯罪・迷惑行為であり、自らの認識の間違いや人間性の愚劣さをあらわにすることに他ならない。

一方で、後藤健二さんと湯浅遥菜さんは『民間の日本人』であって、『安倍政権(日本政府)の対ISの外交政策・テロ対策の代弁者』ではないのだが、IS(イスラム国)は後藤さんと湯浅さんが『日本政府の方針や資金支援に反対する個人』であったとしても容赦なく殺害しただろう。

ここに、排他的(対話不能)なナショナリズムや宗教原理主義に接続しやすい『国家と宗教への帰属を決め付ける人間心性』や『相手の帰属情報だけで自分たちの敵だと決め付ける対話拒絶』の恐ろしさがあると見なければならない。

人口3億人を擁するアメリカ、人口1億3千万人の日本には、『アメリカ人』や『日本人』という大雑把過ぎる国籍のカテゴリーだけでは括れない多種多様な思想信条・価値観・ライフスタイル・人間関係・国際感覚を持った人たちがごった混ぜになっていて、すべてのアメリカ人(日本人)が『政府・権力者の賛同者』であるわけではなく、政権を支持していても内政・経済と外交・軍事では意見が分かれることも多いだろう。

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民俗学者・折口信夫の『国家神道・靖国神社の捉え方』と個人史のエピソード

日本の民俗学の巨人といえば柳田国男(やなぎだくにお,1875-1962)と折口信夫(おりくちしのぶ,1887-1953)になるが、折口信夫の『古代研究』は記紀時代の日本人の精神・文化の起源が、現在あるべき日本人の精神・文化・価値を規定するという『規範的な伝統主義』に立脚していた。

柳田国男は言うまでもなく、天皇制国家を日本の普遍的かつ歴史的な常態とする『皇国史観』の民俗学的・文献学的な基礎を、物語的説得力の中に確立した国学の思想家である。柳田も折口も江戸期からの国学の時間的な流れの上では、記紀を根拠に『神国日本(神道の自然的な現れ)』を掲げた本居宣長(もとおりのりなが)の思想の継承者でもある。

本居宣長は『天皇の種(血統)』こそが、神国日本の本体(国体)であるというラディカルな貴種崇拝原理を信奉したが、この基本的な国家観は近代日本の戦争期において『国体=天皇制国家(天皇の血筋こそ日本の本体)』へと結実することになった。

折口信夫はアジア太平洋戦争における東南アジアや太平洋の島々への軍事的な南方進出を、記紀の『国生み』に喩えるなどして八紘一宇の戦争に協力的・肯定的な思想家でもあったが、柳田に薫陶を受けた折口の日本起源論では太古の時代に日本本土から南海に分離されたとする『沖縄』こそが『日本の原郷』であった。日本人の原初的な領域・生態を沖縄県(旧琉球)周辺に求める南島イデオロギーのロマンスに突き動かされた。

日本軍の軍事的な南方進出は、折口信夫にとっては記紀の神話伝説の再現であり、日本の原郷である沖縄県から更に南へと『本来の日本の原初的領域』を回復する運動として太平洋戦争は捉えられていた。あたかも小中華思想のごとく、日本の原郷・原風景が沖縄県よりも更に南へと無限延長し得るという世界観がそこにはあった。

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パリの新聞社『シャルリー・エブド』の襲撃事件:近代の『唯物論・科学主義・自由主義』と折り合えないイスラーム

近代化とは『唯物論・科学主義の世界観』を前提とする時代の革命的変化で、前近代の宗教霊魂・怪物など全て『無知・迷信』として退けたが、『目に見えない霊的・価値的な真理』を求める人間の本性は消えない。

フランス・パリの新聞社『シャルリー・エブド』がイスラム過激派を含むグループに襲撃されたが、この事件も『目に見えないものを想像の産物として軽視する近代社会』との深刻な価値対立に根ざしているものである。

アラーやムハンマドの風刺は、キリスト教が十分に世俗化してパロディにしても許されるヨーロッパ社会では 、『多様な風刺コンテンツの一つ』に過ぎないが、そのロジックはイスラム教や生活様式が十分に世俗化・近代化していないイスラム圏にはほとんど通用しない一人よがりなものでもある。

ローマ法王「信仰の侮辱」戒める 仏新聞社襲撃

近代人は『唯物論・科学主義』を真理とする法的・社会的秩序の世界で生きているため、『目に見えないものの価値の信奉』によって『人命・自由』を侵害しても良いとする原理主義を深く理解しにくい。宗教も幽霊も怪物も消費されるコンテンツの一つとなり、『全ての出来事を妖怪のせい』にする妖怪ウォッチ的なフィクションである。

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