「現代思想」カテゴリーアーカイブ

“ミニマリスト・ノームコア”と現代の経済・仕事・文化のモード:“資本主義(カネの縛り)・ムラ社会(他者の目)”から自由になりたい意識

■“没個性”上等 自分らしさは中身 「ミニマリスト」で「ノームコア」な若者たち

生活必需品や家電製品さえまともに普及していなかった資本主義の初期には、『モノを多く持っていること・過去になかった家電や車を所有すること・高級高額あるいは希少(生産限定的)なモノを持っていること』が豊かさや地位の象徴であった。

人々は必死に人生の大部分の時間を企業労働に捧げて、経済主体である自らの能力と他人から見た場合の分かりやすい価値を証明するために、今まで持っていなかった沢山のモノを買って所有することに、非常に大きな効用(満足)を感じることができた。

資本主義が成熟段階に近づいてくると、家事労働の負担を軽減して日常生活を便利にしてくれる『洗濯機・冷蔵庫・テレビ・掃除機』のような家電製品はほとんどすべての家庭に普及するようになり、『自家用車・持ち家』といった高額な耐久消費財の普及率も次第に高まっていった。

生活必需品も含むモノに囲まれた生活水準を引き上げるために、全力で働く企業戦士が大多数を占めていた時代には、明らかに『個人の時間・自由度』などよりも『カネ(仕事)+モノ+それらを評価してくれる家族・異性・他人』の価値が圧倒的に高かった。高度経済成長期には、企業社会の労働とモノの経済価値のほうがいわゆる『ノーム・コア(普通さの核)』を形成しており、モノの経済価値に対する異論反論はマイノリティ(新製品に溢れる時代をフォローできない持てない少数派)の声としてかき消されるだけだった。

ミニマリストやノームコアといった哲学的・解釈的な理屈に基づくライフスタイルが通用する余地が生まれたのは、早くてもバブル崩壊以後、現実的にはゼロ年代後期以後だろう。

この時期には、部屋の内装・インテリアなどにおいても、『豪華さ・高級感・ゴテゴテ感を重視したデコレイティブなデザイン性』に対置される『シンプルさ・機能性・さっぱり感を重視したモダンなデザイン性』のほうが優位になってくる。

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吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:2

吉本隆明の『転向論』は、左翼知識人の『戦前・戦後の二重の転向』を自己批判的に問題視する。それは『戦前の左翼→戦争協力者(体制派プロパガンジストへの第一の転向)』と『戦後の戦争協力者→左翼(反体制の平和主義者への第二の転向)』の自己保身的な転向に対する廉恥心の無さの糾弾であった。

私は戦時中も本当は『戦争反対』の立場だったのだが、権力から拘束されて脅されて仕方なく『戦争協力』の見せかけをしていただけなのだという左翼転向派のエクスキューズは、吉本隆明にとって『戦前に自分と同じくらいの若い年齢で死んでいった同胞に対する裏切り・負い目』となってトラウマ的に残り続けた。

吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

この辺は、私も含めて現代に生きる戦争や動員を体験として知らない世代には本質的理解が難しいのだが、日教組の『反権力の平和主義教育・個人主義教育』の原点にあるのも、『私たち教職員は本当は子供たちを戦争に行かせることになる民族教育や思想教育には反対だったのだ(だから戦後日本では絶対に国家権力に盲目的に従属したり進んで自己犠牲に進む人間を作り出さない個性重視の教育をしていく)』という罪悪感(戦前の体制に協力した免罪符の求め)や自己欺瞞(子供を殺したり殺されたりする場に行かせたい教員は本当はいなかったのだ)だと言えるだろう。

吉本隆明は、事後的に『私はあの時、本当は権力の強制する戦争に反対だったのだ』という左翼知識人の手のひら返しの自己欺瞞に対する嫌悪・不快を感じながらも、そこに『知識人と大衆層に共通する人間の保身的な本性』を見て取る。

決定的な敗戦によって日本人の大衆は、あれほどかぶれていた皇国主義・徹底抗戦・滅私奉公のイデオロギーをあっけなく捨て去ってしまい、当時は軍国主義にかぶれて本土での徹底抗戦をも覚悟していた青年吉本の素朴な国家感・人生観は『大人が取り戻した現実主義』の前に瓦解した。

鬼畜米英と憎悪していた米国を戦後は慈悲深い保護者のように慕い、お国(天皇)のためにいつ死んでも良い(死を恐怖するのは愛国心が足りない臆病者)と豪語していた兵士はなけなしの毛布・食糧を集めて明日の生活の心配ばかりをし始め、戦争に協力しない反体制派を非国民と弾圧していた人々は急に『平和主義・個人主義・経済重視の生活』に生き方や考え方を現実的なものに切り替えていった。

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吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

現在の日本では『憲法・安全保障・外交政策(対中国・朝鮮半島)』を巡る対立が、『右翼(民族主義・権力志向・反個人主義)と左翼(人権主義・反権力志向・個人主義)の二項図式』で語られることが多い。

こういった語法は本来の右翼(保守)と左翼(革新)の定義とは関係がないものだが、日本では『自由・平等・人権・護憲・平和・個人の尊重』などは、ネトウヨとも呼ばれる右翼目線では、国家の集合主義的な総合力を低下させる『左翼的な思想・概念』として扱われることが多い。

反体制派の左翼とは、日本の歴史では共産党・社会党(社民党)・全共闘運動・左翼過激派などと関係する『共産主義者(社会主義者)・反資本主義者・反米主義者(反米の文脈での平和主義運動家)』などを指してきたが、今のネットで言われているサヨクはそういった共産主義・社会主義よりもむしろ『個人主義・自由主義(権力からの自由を重視して集団主義的な強制に抵抗する思想)』と深く関係しているように見える。

本来の右翼と左翼の定義から外れてきた、現代のネット上における政治的・思想的に対立する立場を『ウヨク・サヨク』と表記する。

日本人の民族的統合と仮想敵(中国・朝鮮半島)に対する戦闘の構えを強調するウヨクは、民族・国家単位のイデオロギーや軍事増強にこだわらずに『個人の自由・権利・平和』を普遍的価値として強調するサヨクを『反日勢力・お花畑・非現実的な空論家』と揶揄することが多い。

国家の威厳と個人の幸福が一体化しているような拡張自己の思想であり、実際の戦争や自己負担にまで率先して参加するかは分からないが、言葉の上では『私(個人)よりも国家(権力)の拡張』という価値観を提示する。

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“機械化・自動化”と機械・動物を使役し続けた人間の歴史

『機械(machine)』とは、権利と自由を持たない無機的な道具であり装置(システム)である。古代ギリシアの時代から、人間の命令に従って自動で動いて仕事(物事)を成し遂げる『機械』は技術的・思想的な憧れの道具・仕組みであった。

しかし、万人が自由かつ平等という人権思想などあるはずもない古代社会は、弱肉強食のロジックで動く戦争の世界でもあり、戦いの敗者を『奴隷(擬制された生命ある機械)』として一方的に使役・売買することで機械発明のニーズが押さえ込まれていた。

人類が労働を自動化・効率化する『本格的な機械』と遭遇するのは、18世紀イギリスの産業革命期であるが、蒸気機関(内燃機関)・紡績機・工場機械・印刷機などは資本主義の利潤追求・児童労働・長時間労働などと結びつくことで、機械が人間を楽にするよりむしろ『異なる質の過剰な肉体労働(機械を操作したり機械に使われるような肉体労働)』を押し付けることになった。

システム化された工場の機械群に頼らないそれ以前のマニュファクチュア(手作業)の職人たちの多くが、機械によって仕事を奪われて失業したが、『機械化・自動化による仕事の減少』は現代においても憂慮されることのある問題である。当時は機械を破壊して仕事を取り戻そうとする『ラッダイト運動(機械破壊運動)』が起こったりもした。

カール・マルクスは『資本論』の中で、工場機械が人間の労働から一つの仕事を人間たちだけで最初から最後まで責任を持って仕上げる『全体労働(仕事の意味)』を奪ってしまうと語っている。工業社会で働く人間は、労働の機械化によって味気ない全体の一部分の仕事だけをノルマ的に担当するだけの『部分労働』に従事せざるを得なくなり、製品の生産効率は上がるが人間の労働の充実感が落ちるというわけである。

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若者の『○○離れ』:雇用構造の変化・将来不安・脱コミュニティ化・自他の分離との相関

若者の『○○離れ』の多くは、『お金がかかるモノ・活動・嗜好品からの離脱』として解釈できるが、『活字離れ』は記事にあるように電子ブックも含めた『ディスプレイを介したテキストの閲覧』にかなり置き換えられた影響もあるだろう。

『テレビ離れ』もウェブとの競合によって視聴時間が減少したと見ることもできるが、テレビの視聴率に占める中高年層の割合が高いために、『高齢者に合わせた番組・広告・ニュース・社会時評の編成』が多くなり、若者にとって必ずしも見て面白いメディアではなくなってきていることも影響している。

若者が離れているものランキング Top5

若年層の雇用構造の変化は『非正規雇用率・低賃金労働率の上昇』をもたらしているが、このことは『今のまま働いていればいずれ自分は中流階層になれるだろうという合理的予測』を困難にし、『将来不安・貧困回避のための節約・貯蓄の姿勢』を強めることになる。

もう一つはブラック企業問題やワーク・ライフバランス志向とも重なるが、日本の企業社会における働き方の選択肢は『フルタイムで丸一日を費やす長時間労働をする』か『パートタイム(非正規・バイト)で短時間労働をするか』しかなく、『ほどほどに働いてある程度余裕のある収入を得る』ということが実際には難しい。

“お金・中流的な消費スタイル”を重視するか、“時間・節約的な消費スタイル”を重視するかで若年世代ほど価値判断の個別の違いも大きくなっているが、お金と時間とやり甲斐を両立させられるような幸運なワークスタイルを確立できる人は少数派である。

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外見的な特徴・雰囲気では“女要素”は好かれやすく“男要素”は好かれにくいのか?

掲示板で“女要素”は男・女共に好かれ“男要素”は男・女共に好かれにくいという話を、プリキュアやラブライブ、宝塚など『女も好む女だけの楽園』を例にし『中性的容姿の男の選好』に触れていた。男要素の価値は生物学的にも『外見・感覚の美観』より『仕事・戦闘の実利』に置かれたがそれが現代では縮小しがちなのかも。

確かに、男性が好む『男要素の多い漫画・物語』はあるが、そういった作品の多くには『仕事・戦闘・不良文化の対決とそこから得られる利益(階層的な上下関係・より困難な仕事の達成やより強い敵の撃破)』が関係していて、女キャラだけが登場する『女だけの楽園』と並ぶ『男だけの楽園』といった世界観は成立しづらい。

腐女子やドルオタなど一部の女性が好む『美形の男』も、『女要素の美観を持つ中性的存在』で、仕事・戦闘喧嘩・競争の勝敗や上下関係メインの『純粋な男要素』は余り人気がないように思う。ファッション雑誌が典型だが、女性は美形の女性を観賞するのが好きな人も多いが、男性には美形・着飾った男性を観賞する趣味がない。

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