「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

『白人警官に対する抗議デモ』で白人警官5人が狙撃されて死亡:アメリカで人種紛争が再燃か

多民族国家アメリカ、1960年代の公民権運動で『黒人の人権侵害・人種差別』は法律的には解消されたが、無抵抗の黒人容疑者を白人警官が過剰に痛めつけたり殺したりする型の黒人差別・虐待は根深い。

米警官狙撃、単独犯か 死亡容疑者、元陸軍の25歳黒人

2件続いて起こった白人警官による黒人射殺に憤慨する抗議デモには、かなり不穏な暴力的な空気もあったとされるが、発砲事件の一つは黒人青年がただ身分証明書をポケットから取り出そうとしただけで突然射撃された悪質な事件で、黒人の同胞意識や歴史的な人種差別への怒りに火をつけたのは無理もない面がある。

白人警官の黒人射殺事件の背景には『黒人の貧困率と犯罪率の高さ+白人警官の偏見と過剰警戒+黒人差別・人権の軽視』の複雑な事情があるが、やはり『銃社会における警察官の不安・警戒と先制攻撃』も無視できない。犯罪者の銃の所持率が高く黒人への偏見があると、警官は黒人の僅かな動きにセンシティブに反応しやすい。

奴隷制・人種分離・暴力闘争(マルコムX的闘争)など黒人差別の根深い歴史がアメリカにあり、『銃社会・武装権・黒人の貧困率(犯罪率)・白人の影響力低下(白人の人口減)』が絡む。黒人射殺の発砲事件は、白人の黒人に対する黒人の白人に対する複雑なコンプレックス・偏見と優劣感がぶつかる人種闘争の火種となる。

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なぜ日本のリベラル勢力(リベラル政党・左派)は衰退したのか?:リベラリズムの歴史と自由主義・福祉国家への分裂

戦後日本にはリベラリズム(自由主義)を対立軸とした政党政治の争いはそもそもなく、日本国憲法が個人の権利保障としてのリベラリズムを根本で規定し続けてきた。リベラルの反対は自民党的な保守主義でもない。

なぜ、リベラルは勝てないのか 田原総一朗vs花田紀凱

リベラリズムの原点は『個人の自由の保護』であり、古典的なリベラルは『国家権力に強制・干渉されない自由』を求め、経済が発展して社会に余剰が生まれると『国家権力による福祉的な再分配の自由(生存権・社会権)』を求めるものへと変質していった。現時点の特に米国のリベラルは後者の『福祉国家・大きな政府』に近い。

リベラリズムの原点は自由主義という言葉のままに『個人の自由を尊重する思想』である。古典的リベラルは『国家のための国民(国家権力の強化と国民の忠誠・統治)』ではなく『個人のための国家(国家による個人の必要限度の保護)』を志向する。ラディカルになればリバタリアンやアナキストにまで個人の自由が拡張する。

リベラルは平たく言えば、国家(統治権力)があってこそ国民の生存があるのだから究極的に国民より国家が上である(国家は国民に生命・財産を捧げるようにとの教育や命令もできる)という権威・統制主義に対抗する思想だ。つまり市民=主権者が権限移譲する社会契約で国家は暫時の権力を認められたに過ぎないと考える。

リベラルとは何かを一言で定義しなさいと出題されれば、『基本的人権の不可侵性を重視して人間の自由を尊重・拡大していく思想』と答えれば、概ね歴史的なリベラルの変質も包摂した回答になる。リベラルは『平和主義・福祉国家・弱者救済・死刑廃止・個人主義』と相性が良いが、それらは人権保障のバリエーションである。

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日本における在日に対する差別感情と世界で蔓延するヘイトスピーチの危険性

ヘイトスピーチとは『在日韓国人の一人の金容福の個人的動機の殺人』と『韓国人全般への憎悪・悪意』を混同し、『容疑者以外の悪意・犯罪のない在日』にも恐怖・不安を与える憎悪表現である。

上司、金づちで殴り死なす=「待遇に不満」男逮捕―大阪府警

ヘイトスピーチの何が問題かというと『人種・国籍・民族・性別・宗教』などの本人の自由意思や努力では殆ど変更不可能な属性によって、『あなたは?だから悪人・敵であるはず』や『あなたは?だから侮辱されて攻撃(殺害)されても構わない』にまでエスカレートした過去の歴史や現在進行形の差別・紛争などがあるからである。

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参院選と憲法改正の問題、自民党憲法草案は何を変えようとしているのか?:立憲主義と国家権力・個人の関係

近代憲法の立憲主義は『国家権力の有効範囲』を示すことで『国民の人権・自由』を守るが、自民党草案では『公益及び公の秩序』によって『個人の権利の有効範囲』が狭まり国権が強化される。

何を変えようとしている?自民憲法草案(4)権利と義務 公益と責務重視 (THE PAGE – 06月28日 14:11)

近代憲法では『個人の生存権・自己所有権』は国家によって保障される以前の『天賦人権・自然権』に由来すると想定されるから、国家が認めてくれなければ『生命・身体・内面(思想)の自由』が認められないわけではない。その意味で『人権と義務の相互性(義務を果たさないと人権がない)』の主張は間違いである。

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“お金・美貌の高低”を巡る幸福追求と自我(エゴ)の強度・視野限定の知足

現代を生きる大勢の人々は『幸福追求』に呪縛されていて、憲法までも『幸福追求権』を人権の一部として追認している。

幸福というのは蜃気楼に浮かぶ砂上の楼閣のようなもので、自分は幸せだなと実感した日の翌日になれば、また何となく冴えないつまらない毎日だなと思ったりもする。幸福は自分の置かれた状況や関係によって現れたり消えたりを繰り返す、幸せはずっと自分の元に置いて留めておくことが難しいものである。

マツコ「全然幸せになんねぇ」、お金稼いでも結局は「キレイなほうが得」。

ある年齢の時に幸せだと思った状況が、別の年齢の時にはそうは思えなくもなるという『幸福の条件の流動性』もある。『自分が最高の幸せの条件』と思っていたモノや相手、環境を手に入れても、それがどのくらい持続するかははなはだ心もとないものである。

『幸せといえば幸せといえる状況・瞬間・能力』を多くの人は何かしら小さなものでも持っているのだが、現代の資本主義の競争社会では『自分や周囲の何人かだけにしか通用しないような幸せ・楽しみ・満足』は軽視されやすい。

SNSの知り合いの投稿やニュースの世間一般の動向を見ていると『自分よりも幸せそうな人生や面白そうな日常を送っている大勢の他者』が目について、自分だけが恵まれない不遇をかこって、面白くもない日常を送っているのではないかという劣等感・焦燥感も生じやすいだろう。

現代では自分だけにしか通用しない自己満足的な幸せは軽視されやすいが、安定した幸せや安らぎを得る決め手になる思考・感覚のヒントは、実は『他人が自分の幸せのレベルをどう評価してくれるか』よりも『自分の世界観・行動方針・好奇心(探究心)の魅力』を高められるかの側にあることが多い。

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死刑判決に苦悩する裁判員:『死刑肯定(処刑)』と『死刑否定(情状酌量)』のどちらにも傾く人間心理

人間社会は戦争・犯罪・刑罰(娯楽・公開の見せしめ)で人を殺してきたが、無条件に生存権を保障する近代の『人権思想・死刑廃止』と更生困難な悪人は吊るせの『報復・排除の本能』の葛藤は続く。

元裁判員「自分は人殺しだ」 石巻3人殺傷、死刑確定へ

煮ても焼いても食えない利己的・嗜虐的な殺人者は、息の根を止めて殺すしかないとする人間の動物的・自衛的本能は現代でも強い。『情けをかけ助けようとした悪人』が隙をついて刃物・拳銃でこちらを殺そうとし、二度の情けはないと主役が拳銃で額を容赦なく撃ち抜き処刑する図式は人間心理を爽快にさせ拍手喝采を送らせる。

死刑肯定論の原型は『情状酌量で助命しても反省せず再犯の恐れが強い悪人』は情けをかければ裏切られるから(神妙な表情の裏で舌を出すから)吊るすしかないとする図式、もう一つは『被害者遺族・社会世論の報復感情』を権力は代理的に満たさなければ社会正義の執行・信賞必罰の均衡を崩すという図式で支えられている。

死刑廃止論は『人間には生まれながらに不可侵の人権・尊厳が備わっている(人が人の生命を奪う事は許されない)の前提』を置き、『殺人者には人としての良心・共感・自制を喪失するだけの不利な事情』があったはずと情状酌量の助命要因を仮定する。『人は更生教育・愛情・承認の関係性で変われる可能性』を持つとする。

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