「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

人生の楽観と悲観、どちらが良いか?:『道』を貫徹した信念の人・東浦奈良男さん

人生は楽観して気楽にやればいいとも、悲観して神経質に備えれば良いとも結論づけられないもので、数十年のプロセスで浮かび消える感情や関係も重要だ。状況により楽観と悲観も交替するが、畢竟『知識・能力(自律)』と『人・社会(他律)』の極を行ったり来たりしながら、自分なりに打ち込める『道』を進めるかだろう。

過去の偉人の評伝や同時代を生きる人たちを見ていて思うのは、各人の好みや環境、適性、思想などによって『道』の内容が『他者をそれほど要しない黙々と何かを継続する自律』に到達する人、『他者・社会の承認や他への貢献を目指す他律』に到達する人に分かれるが、道は無窮(未完の定め)である故に有限の人の希望となる。

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辰吉丈一郎が何歳になっても現役ボクサーとしての鍛錬・生活を続けるのはなぜなのだろう?

プロスポーツ選手は『金銭・名声』の為に腕を磨く動機づけも強く引退後に不摂生・贅沢・女等で身を持ち崩す者も多いが、辰吉丈一郎はボクシングを利益・期間不問の『道』とした感じがある。

辰吉丈一郎が無収入でも引退勧告されても「ボクシングをやめない理由」

薬物逮捕で騒動を起こした清原和博は高級車を買い集める車道楽が銀座遊びと併せ『経済難』の一因になったとされるが、薬師寺保栄(辰吉が挑発して敗れたが)も車好きで知られる。辰吉は大金を得た後も『車や豪邸・女・夜遊び・外見』等での享楽・虚勢に関心を奪われた形跡が薄く、ボクサーとしての鍛錬の日課を乱さないストイックさは際立つ。

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消防士が先輩に殴られて骨折・虐待行為も:男同士の閉鎖的・密着的な人間関係がある職場の暴力問題

男同士の密着的な人間関係というかヒエラルキーのある先輩後輩の区別の強い職場では、暴力を伴うホモソーシャルの問題が起こりやすい。10~30代の男の同性社会では人格の平等・尊重が成り立ちにくい。

消防士、先輩に殴られ骨折 腕にたばこ?の痕も 東大阪

消防士・軍人・警察官等では、閉鎖的な共同体性や上下関係を前提に『協働義務・集団訓練』があることで、更に下位者に上位者が『一般社会では容認されない暴力・暴言を教育指導やしつけの名目で振るいやすくなるマウンティングの下地』ができやすく、その人の本来の人間性や集団力学への迎合性が表面化しやすい。

広義に捉えれば、人間の持つ『動物的な暴力性・支配性』の根源にあるものとして、『共同体内部におけるヒエラルキー構造の順位づけとその順位序列の暴力・暴言・虐待による確認』と考えることもできる。北朝鮮や旧ソ連の内紛・粛清もその類だが、ミクロでは『家庭内部のDV・モラハラ・虐待』も心理構造に共通性はある。

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釈迦(ブッダ)とイエス・キリストの死から『無常・不死願望』を考える:知識・教養の効用とは何か?

東洋の仏教(釈迦)と西洋のキリスト教の最大の違いは『死の捉え方』にある。釈迦は死を『無記』として諦める他ない人の無常の定めとする(浄土思想はキリストに近い)が、キリストは『死と復活の物語』で人間の不死願望(消滅の不安・無意味さ)を満たそうとする。この『魂の不死+理性による救済』はソクラテスまで遡る。

ソクラテスの毒ニンジンの自死とキリストの十字架の刑死は『ヨーロッパ文明の礎石』だが、仏教や釈迦の涅槃と比べれば人が死ねば消滅するしかない現実を受け容れられない人間臭い思想だろう。『理性(ソクラテス)と信仰(キリスト)』で死(消滅・無意味)に抗い、理屈好きのギリシアの哲学者達さえも非理性的な『魂の不死』を信じた。

ヨーロッパ文明の源流にあるギリシア哲学とキリスト教は、『死ぬ人の有限性の限界』を理性教と宗教で克服しようとした営為だろう。ソクラテスとプラトンはイデア思想によって『肉体が滅びた後の愛知者の魂は不死』という理性信仰を掲げ、キリストはより大衆的に『神を信じれば死と復活で永遠の幸せが約束される』と説いた。

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LGBTの差別禁止法案、 認知症患者の大量購入が取消可能になる法的保護措置

LGBTの権利拡大は世界的な趨勢だが先進国において『生産性』を普遍的価値とする近代のヘテロセクシャルと婚姻制度の規範的結合が緩み始めた事も影響している。企業におけるLGBTの差別禁止は必要だろう。

性的少数者の差別禁止で法案=民主、与党と共同提出目指す

LGBTの差別禁止は『非LGBTとの均等待遇』であり『LGBTのアファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)』ではない事に注意が必要だ。LGBTだけを理由に仕事上の不当待遇をしてはならないという事であり、『職務上の適性・見た目の自然さ』等の観点でMTF男性が受付や接客に採用されづらい等はあり得る。

LGBTの人権尊重と雇用上の均等待遇は、LGBTであることだけを理由に採用面接を断られない、不当な雇用待遇(昇進上の不利な扱い)をされないという事である。『職場でトランスな性自認・性的指向の強調』をしてもいいという話ではなく『性別違和感のないヘテロな男女と別の基準で仕事の評価をされる』わけでもない。

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『六曜』の吉凶占い・迷信からなぜ差別が連想され得るのか?

古代では『暦』は『吉凶占い・運勢』とセットだった。六曜も暦に日の吉凶を加える『暦注』の一つで、日本には鎌倉・室町期に入った。六曜の影響は冠婚葬祭で強いが、明治期にも一度禁止されている。

「六曜は迷信」差別を助長? 大分でカレンダー配布中止

『六曜』が科学的根拠のない迷信・俗習であることは確かだが、それがなぜ部落解放同盟が憂慮する『差別』に結びつくのか。『一定以上の人数が根拠のない吉凶占いに従う(あるいは本心で信じていなくても同調圧力の世間体に合わせる)』という集団心理を、かつての部落差別・穢れ嫌悪の心理と重ねたという事だろう。

部落差別は『旧身分(穢多・非人)+職業差別+穢れ(ケガレ)思想』に基づいて行われたものである。『生き物の殺生に関わる職業および河原等の特定の地域は汚穢(ケガレ)に塗れている』という無根拠な迷信があり、その迷信は『合理的な抗弁』では変わらなかった。その差別的な大衆心理を六曜の影響力に重ねたという事か。

部落差別と六曜には直接の関係はないが、その大衆心理・世間体の構造には似た要素があるとは言える。部落差別も『私は部落を差別しないという人』が『実際に部落の人と結婚するとなったら猛反対する人』が多かった、六曜もまた『私は六曜など気にしないという人』が『実際の冠婚葬祭では六曜に従ってしまう人』が多い。

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